By

『君の牙』第一章ティザー

──すべては、ここから逆算される。

50の国、50の文明、50の言語
──まだ誰も見たことのない前提50作が並び立ち、
神の定義へと収束する。

そのための起点──その序章が、いまここに示される。

『君の牙』──第1章、ティザー公開。
この語りは、数年を経て公開されるbitBuyerテリングの前日譚である。


神聖ヴェルメルデ帝国の辺境一区──ハンサ村。
士官候補生、ソラ。
半年ぶりの帰郷。

脇に抱えた赤い箱。
その中身は──ただひとつ。

教会に住む少女、エルへの、
結婚の申し込み。

だが返事は、いつものように
「また今度」

……けれど、その日。
エルは少しだけ違っていた。

「──“共連れ”になってくれたら、考えてあげてもいいよ」

意味を測りかねるその言葉。
彼女はあっさりと、背を向ける。

向かう先は、帝都ダルムバッハ。
旅の目的は──彼女の秘密。

だが、その足輪で結ばれた彼女とならば、あるいは……。

ソラは、答えを出す前にもう決めていた。

鉄と石と祈りが響く帝都で、
二人は、それぞれの運命に向き合う。

祝祭の胎動に包まれた街。
巨大な聖堂の奥深く。

そこで明かされるのは、
血と宿命に縛られた一族の現実──

「継子創生」。

祈りと沈黙の果てに、
エルが差し出した選択肢は。

ソラに、決定的な問いを突きつける。

「守るために選ぶのか。
 それとも──制度に加担するのか。」

祝福は、呪いだった。

奴隷の足輪。
刻まれた烙印。
燃え尽きた才能。

孤独な“魔女”エルが選ぶのは──義務か、愛か。

「ソラ──それでも、私を選ぶ覚悟はある?」


カクヨムでも掲載中


■プロローグ

 夜。孤児院の寝床は藁の匂いが満ちていた。
 眠ろうとして目を閉じたとき、外がふっと明るくなる。
 窓の外で、年下の孤児が遊びで炎の神術を出したのだろう。ぱちぱちと小さな火花が夜を照らす。
 その光を見た瞬間、胸の奥が締めつけられた。
 ──「やっぱりお前は天才だな、エル」
 父の声。笑いながら、頭をぐしゃぐしゃに撫でてくれた感触。
 気づいたときには、嗚咽が漏れていた。
 止めたくても止まらない。
 さらに別の声が蘇る。
 ──「大丈夫、エルは特別だから」
 まだ母が生きていたころ。あのときのあたたかさまで一緒に。
 私は藁布団の中で体を小さく丸める。
 足首で、カチャカチャと足輪が鳴った。
 ──奴隷の象徴。
 あの頃の天才も、特別も、もうどこにもいない。ただの“足輪の女”がここにいるだけだ。
 きっと、私のことを理解できる人なんていない。秘密が重たすぎる。言いたくても言いたいことが多すぎる。それに、神様もきっと赦してくれない。でもいつか、きっと、言わなくても伝わる人に会えると良いな……。

***

 私が十二歳のとき、ソラは十歳だった。
 その二年は、ただの数値ではない。子どもと子ども、その境界線を分ける深い溝だった。

 まだ夢の上で眠っていられる年齢と、もう夢から追い出されて現実を見続けなければならない年齢。
 その違いは、残酷なほど大きい。

 村の朝は冷たかった。
 洗い場の石畳は夜の冷気を溜め込み、桶の水は肌を切るほど冷たい。鐘はまだ鳴らず、教会の影だけが長く伸びていた。私はそこで布を絞りながら、自分が十二歳であることを自覚していた。
 ──ここでは、それが生きることと同じ意味を持つから。

 ソラは違う。
 十歳の彼はまだ夢の中にいた。
 「結婚しよう」と言って笑える無邪気さは、私にはもうなかった。まっすぐな声が、あまりに遠くて、痛くて、羨ましい。

 私と彼の二年の差は、きっと世界の差だった。
 それでも、あのときから物語は始まってしまった。
 十歳の少年と、十二歳の私。
 子どもすぎて、でも確かに本気だった、あの約束から。

■ソラ、10歳・また今度、考えてあげる

 朝の湿気は、まだ私の手の甲に残っている。洗濯桶の水は夜明けよりも冷たく、布を絞る指先は赤くこわばったまま。村の鐘はまだ鳴らない。赤茶けた教会の影の中で、私はいつものように呼吸を整えていた。

 「エル! 聞いて!」

 声が駆けてくる。
 振り向かなくてもわかる。あの子の声は、いつも真っ直ぐで、少しだけ痛い。

 「……なに?」
 「俺、士官学校に行けることになった!」

 言葉が弾けた。
 振り返ると、ソラが息を切らして立っていた。髪は跳ね、足は土で汚れている。軍服じゃない。まだ士官候補生でも、ただの子ども。
 嬉しさが全身からこぼれているのがわかる。私の知らない未来に、一歩踏み出した顔。

 「……士官学校? あの、帝都の?」

 帝都。
 その響きは、ここでは異国のような重さを持つ。私は布を絞りながら問い返した。

 「そう! 帝都基準の神聖力適合テストで、俺、最上位に食い込んだんだって!」

 帝都基準。
 村の子が、帝都で最上位。
 そう言われれば、きっとこの子の胸がどれだけ膨らんでいるか、想像できる。

 「……帝都基準で、最上位?」

 あえて声を平らにした。
 驚きなんて、顔に出すものじゃない。

 「うん! 村の先生もびっくりしてた! 『村の子がここまで出るなんて珍しい』って!」

 胸を張る姿が、少し眩しい。
 でも──眩しいからって、うかつに褒めたりはしない。

 「……ふぅん。なるほどね」

 布を手桶に戻す。
 騒ぐことじゃない。数字が良いだけで、人が変わるわけじゃない。

 「すごいでしょ!」

 目が私を射抜く。
 そう言ってほしいんだね、と伝わる視線。

 「まぁでも、驚くことじゃないかな」

 冷たいように聞こえるかもしれない。でも、これは私の本音だ。

 「えっ?」

 戸惑う声。
 私の言葉が、この子の熱を少しだけ冷やす。

 「私なんて、八歳のときにはグリムハーフェンで“天才”って言われてたよ」

 淡々と告げる。
 誇らしい記憶じゃない。ただの事実。あの街で数字を見せれば、人は簡単に騒いだ。

 「……天才?」

 子どもの声が小さくなる。
 帝都を手にした気分でいたのに、それが世界のすべてじゃないと知った顔。

 「そう。数字が良ければ周囲は騒ぐの。でもね、数字だけじゃ人の価値は変わらないの」

 そのことを、誰よりも私が知っている。
 数値も評価も、私を自由にはしなかった。
 だからこそ言う。
 ──数字だけで浮かれても、何も変わらないの。

 「……なんか、かっこいい……」

 少年はそう言った。
 かっこいい、か。
 その言葉は、私の皮膚を滑るだけで、どこにも届かない。

 かっこいい? 笑ってしまいそうだった。

 「かっこいい? そんなものじゃないよ。現実を知ってるだけ」

 私は答える。
 彼にはきっと伝わらない。けれど、そういう言葉は言っておかなくちゃいけない。
 帝都で、グリムハーフェンで、“天才”だとか言われた子どもの結末を、私は知っているから。

 「でも、やっぱりすごいよ。エルは特別なんだな」

 特別。
 またそれだ。
 何度も聞いてきた。私を縛るための甘い鎖。
 でも、この子の口から出ると、それは少しだけ違って聞こえる。

 「……特別……ねぇ」

 自分で繰り返してみても、何も実感はなかった。
 特別であることが、どんな意味を持つというのだろう。
 私を奴隷から解放するわけでもないのに。

 「そう! だから……結婚しよう!」

 ……結婚?

 「……は?」

 喉が乾いた。
 水仕事の冷たさがまだ指に残っているのに、体の奥は一瞬で熱を帯びた。
 この子は、今、何を言った?

 「だって、エルは一番優しいし、かわいいし、だから結婚したい!」

 優しい。かわいい。
 それは褒め言葉ではない。私はそれで何度も人から消費されてきた。
 だけど、この子は、きっとそんなことも知らない。
 だからこそ真っ直ぐで、痛い。

 「ソラ、あなた何歳?」

 問いかける声が、思ったより低く響いた。
 現実を突きつけるために。

 「十歳!」

 無邪気に返ってきた数字。
 ──やっぱり子ども。
 それでも、あまりにまっすぐで、私の言葉は鈍る。

 「十歳で結婚はできません」

 少しだけ棘を混ぜた。
 この世界の仕組みを、少しでも教えるために。

 「じゃあ大人になったら!」

 大人になったら。
 その未来がどれだけ遠くて、どれだけ無慈悲か、この子はまだ知らない。

 「……はぁ。まぁ……また今度ね」

 ため息と一緒に逃がした。
 子どもの夢を壊さないための、苦い妥協。

 「ほんと!?」

 期待に満ちた声が、胸を打つ。
 答えは簡単だ。

 「また今度、考えてあげる」

 また今度。
 半年後か、一年後か。
 そのとき、私たちはどうなっているのだろう。

■ソラ、10歳後半・立派になる日まで

 「エル! 約束覚えてる? 大人になったら結婚!」

 日差しが強くなってきた季節。麦畑の匂いは甘く、風は熱を含み、遠くで鶏が鳴いている。
 ソラは、またその話を持ち出してきた。

 「……またその話?」

 私は麦束を抱えたまま立ち止まる。
 半年たっても、この子の熱は少しも冷めないらしい。

 「もちろん! 忘れるわけない!」

 まっすぐな目。
 どうしてこうも、一途でいられるのだろう。
 私はその理由を知りたいのかもしれない。

 「……うーん。まぁ、ソラの一途さは認めるけど……勉強は?」

 問いかける。
 結婚だの約束だの言う前に、現実を見せなきゃならない。

 「やってる! 士官学校の勉強も、村の先生の宿題も!」

 息を弾ませて、胸を張って。
 努力を誇る子どもの声。
 それは、まだ未来を信じられる年齢の音だった。

 「ふぅん。士官学校って大変なんでしょう?」

 軽く言ったつもりだった。
 でも、胸の奥では少しざわめく。
 帝都の士官学校──私にとって、それは遠い世界。

 「うん! でも、がんばる!」

 がんばる。
 その言葉の単純さが羨ましい。
 私はもう、がんばるだけじゃ足りない世界にいるのに。

 「……がんばる理由は?」

 つい聞いてしまった。
 この子は何のためにそこまで夢中になれるんだろう。

 「そりゃあ……エルと結婚するためだよ!」

 あまりに即答で、私は言葉を失った。
 この子は本気でそう思っている。
 未来の重さも知らないで、私を未来に連れていくつもりで。

 「……子どものうちはなんでも理由になるんだね」

 口に出した瞬間、自分でも少しだけ意地悪だと思った。
 でも、そう言わなきゃならなかった。
 この子の熱を受け止めすぎると、私までどこかへ連れていかれそうになる。

 「子どもじゃない!」

 抗議の声。
 それがまだ子どもである証拠だと、すぐにわかってしまう。

 「十歳は立派な子どもです」

 私は断言する。
 それは彼に向けた答えであり、私自身への確認でもあった。
 ──線を引け。これ以上、深入りするな。

 「でも、立派な大人になる!」

 大人。
 その言葉が、こんなにも軽やかに出てくるのが不思議だった。
 私は、大人になることがどれだけ重く、苦いことかを知っている。

 「……そうね。立派になったら、考えてあげる」

 私の声は淡々としていた。
 けれど、胸の奥でわずかな揺れがあった。
 この子の立派が、いつか本物になる日が来るのだろうか。

 「よし! 立派になる!」

 即答。
 その真っ直ぐさに、ほんの少しだけ笑いそうになる。

 「……ほんと、変わらないね」

 つぶやくように言った。
 変わらない。
 けれど、変わってほしくない部分があることを、私はすでに知ってしまっていた。

■ソラ、11歳・証明してみせなさい

 「エル! 結婚しよう!」

 また、開口一番それ。
 春の風が冷たい村道を抜けていく。教会の扉が少し軋み、磨き切れていない金具の音が背後で微かに鳴った。

 「……はいはい。もうその話は聞き飽きた」

 返事は乾いていた。
 でも、私の胸の奥では、聞き飽きるという言葉とは真逆のざわめきが続いている。

 「聞き飽きたって、だって俺、本気だから!」

 本気。本気ね。
 その単語をどれだけ信じればいいのか。
 十一歳の本気なんて、私の世界では羽毛のように軽い。

 「ソラ、あのね。まだ十一でしょ?」

 私は立ち止まって問い返す。
 少し冷たく聞こえてもいい。
 年齢の数字は、線を引くための武器になるから。

 「でもさ、士官学校に入ったらもう大人扱いされるんだよ!」

 誇らしげな顔。
 子どもが「大人」という言葉を盾にする時、それが一番子どもらしい瞬間だと私は知っている。

 「大人扱いねぇ……」

 声が自然と低くなる。
 大人扱い。それがどれほど空虚か、この子にはまだわからない。

 「だって、軍人の卵だよ? もう立派な候補生なんだから!」

 確かに、立派に見えるのかもしれない。
 でも、殻を破っていない卵は、まだただの卵だ。

 「ふーん。じゃあ“幼年部”っていうのは嘘なの?」

 あえて突きつける。
 その立派さが、言葉の上だけであることを示すために。

 「……うっ」

 返ってきた声は詰まる。
 まだ子ども扱いされるのが悔しいのだろう。
 けれど、その悔しさが成長の証だと私は知っている。

 「士官学校って言っても、まだ子ども扱いのくせに」

 だから私は言う。
 少し意地悪に。少し優しく。
 この子が本当に大人になる日が来るまで、境界線を守るために。

 「ちがう! もう大人だって!」

 声が上ずる。
 大人を名乗るその響きが、まだ幼さを隠せていない。

 「だったら証明してみせなさいよ」

 私は挑発する。
 証明なんて、簡単じゃないと知っているからこそ。

 「どうやって?」

 子どもらしい問い返し。
 答えを私から引き出そうとするその眼差しが、少しだけくすぐったい。

 「そうねー……じゃあ士官学校で一番になったら考えてあげる」

 突拍子もない条件を置いてみせる。
 私の声は穏やかでも、それは試金石のような重さを持たせた。

 「ほんと!? 約束な!」

 迷わず飛びつく。
 この子は、本当にこういうところで疑わない。

 「……簡単に信じちゃって。世の中そんなに単純じゃないのに」

 少しだけ苦笑が漏れる。
 それでも、簡単に信じられる世界で生きていることが羨ましいと思ってしまう。

 「大丈夫! 絶対なる!」

 拳を握って断言する姿。
 その熱が、私の冷えた胸をほんのわずかに温めた。

 「はいはい、がんばってね」

 わざと軽く返す。
 その方が、きっとこの子は前を向き続けられる。

 「バカにしてるでしょ!」

 図星を突かれて、むくれる声。
 少しだけ、口元が緩む。

 「してないよ。……少しだけ、楽しみにしてるだけ」

 私の言葉に嘘はなかった。
 ほんの少しだけ、本当に。
 この子が約束を叶えたら──そう考える自分がいることを、認めてしまった。

■ソラ、11歳後半・意地悪な優しさ

 森はまだ朝の霧を吐き出していた。湿った土の匂いと金属の冷たい匂いが、呼吸のたびに混じる。
 私は銃を構えていた。木々の間に吊るした古い鍋の底に狙いを定める。指先は冷えても、引き金にかけた感覚だけは熱い。

 「エル! 聞いて! 勉強めっちゃ頑張ってる!」

 突然、背後から声。
 銃口がわずかに揺れる。
 ──この子は、どうしていつも唐突なんだろう。

 「……またその報告?」

 照準を戻しながら答える。
 この鍛錬は私にとって日常で、彼の報告はまだ子どもの遊びの延長だ。

 「だって! 結婚のためだもん!」

 引き金を絞る。
 乾いた音が森に響き、鍋の底に弾痕が新しく刻まれる。
 結婚のため──その理由はあまりにも軽くて、だけど真剣で、否定しきれない。

 「……そういう理由で頑張るのってどうなのよ」

 視線だけ彼に向けた。
 汗をかいた額、息を弾ませている。
 私の世界の重さを知らないまま、ひたすらまっすぐな目で。

 「いいじゃん! 目的があった方がやる気出るし!」

 そうかもしれない。
 でも、目的の先にある現実を想像できていないのなら、そのやる気は脆い。

 「まぁ……そういうものかもしれないけど」

 銃を下ろす。
 認めたわけじゃない。ただ、子どものまっすぐさに水を差すほど大人じゃなかった。

 「それでね、俺、神聖力の測定でさ……シフタって認められたんだ!」

 ようやくか。
 私の胸に浮かんだのは、驚きではなく遅さへの実感だった。

 「ほう。やっとか」

 言葉は冷たく落とした。
 彼の顔に浮かぶ誇らしさを、少しだけ削ぐために。

 「やっとって何さ! すごいだろ!」

 即座に抗議の声。
 その子どもらしい反応が、少しだけ可笑しい。

 「私はね、六歳で使えたけど?」

 私の過去を軽く口にする。
 数字で人の価値が変わらないことを知っているのに、こうして数字で彼を突き放す。
 ──少しだけ意地悪な私を、止められなかった。

 「……っ!」

 彼の顔が悔しさで染まる。
 その表情を見て、私はほんのわずかに口元を緩めてしまった。

 「……あ、怒った?」

 銃口を下ろしながら、わざと軽く言う。
 彼の唇が引き結ばれて、目が少し潤む。──悔しさを隠せない顔。

 「ずるい! 比べるの反則!」

 正面からの抗議。
 わかっていて、私はその場所を突いた。

 「ふふ、そういう顔すると思った」

 銃身の冷たさが手に馴染む。
 この子の反応は、射撃の結果よりもずっと予測がつきやすい。

 「……エルってたまに意地悪だよね」

 意地悪、か。
 でも、これくらい言わなきゃ、この子はきっとどこまでも甘えてしまう。

 「事実を言っただけだよ。天才って呼ばれてた頃の私を知らないでしょ?」

 私は昔話のように告げる。
 その呼び名がどれほど空虚だったか、彼にはわからない。だからあえて言う。

 「う……でも、俺だってもっと強くなるし!」

 言い返す声が震えている。
 それでも、彼のまっすぐさは折れない。

 「なら、体力もつけないとね。勉強ばっかりじゃシフタも活かせないよ」

 彼の誇らしさを少しだけ現実に引き戻す。
 ──力は数字だけじゃ意味を持たない。

 「うん! 腕立てもしてる!」

 即答が返る。
 その必死さが少しだけ愛おしい。

 「……なんか、ペットの成長報告みたい」

 口元が勝手に緩んでしまう。
 軽口で誤魔化さなきゃ、この感情の正体に気づかれそうだった。

 「ちょっ、ひどっ!」

 想像通りの抗議。
 その単純さが、この森の空気を少しだけ温める。

 「だってそうじゃん。ほら、“頑張ってます!”って必死にアピールしてくるあたりとか」

 からかうように続ける。
 このやり取りが、鍋の的を撃つよりもずっと楽しいことを、私は認めたくない。

 「ふふ。まぁ頑張りなさい。十年後に胸張って来られるくらいにね」

 銃を肩に担いで言った。
 十年後。
 その言葉が、私自身に突き刺さる。
 この子の未来に、私はまだ立っていられるのだろうか。

■ソラ、12歳・少しだけ違う気がする

 村の外れ。初夏の風が教会裏の洗い場を抜けていく。
 石畳は濡れてひんやりしていて、日差しは強いのに影はどこか肌寒い。私は洗ったリネンを手で絞っていた。

 「エル、結婚!」

 背後から声。
 出会い頭にそれ。心臓がわずかに跳ねる。

 「……出会い頭に求婚するのやめなさい」

 私はリネンをもう一度きつく絞る。
 この子の突拍子もない一言に、いちいち振り回されてはいけない。

 「だって、今日もすごくかわいいから!」

 水音よりも明るい声。
 かわいい、か。そう言われるたび、少しだけ息が詰まる。

 「そういうこと、軽々しく言うと嫌われるよ?」

 あえて釘を刺す。
 その言葉の軽さが、私を少しだけ怖がらせるから。

 「エルには嫌われない!」

 即答。
 無邪気さの奥に、彼なりの確信があるのだろうか。

 「……その自信はどこから?」

 問いかける声が、自分でも少し低いと思う。
 そんな簡単に信じてしまっていいものじゃないのに。

 「だってエル、俺のことちゃんと見てくれてるし!」

 ……ちゃんと見てる?
 胸の奥に重い石が落ちたような感覚。
 私はこの子を“見ている”。でも、それは──。

 「……はぁ」

 ため息が漏れる。
 私の中にあるものを、どう言葉にしていいのかわからなかった。

 「え、なにそのため息!」

 不満げな声。
 まるで、自分の正しさを肯定してほしいと駄々をこねる子どもみたい。

 「ソラ。あなたね、私がどういう女か、本当にわかってる?」

 思わず問いかける。
 知っているつもりでいるなら、教えてやらなければならない。

 「わかってるつもり!」

 躊躇なく返ってくる。
 その迷いのなさが少しだけ羨ましい。

 「ふふ。なら答えて。どういう女?」

 微笑む。
 挑発にも似た問い。
 この子の答えが、私の世界を少しでも変えてくれるなら──そう思ってしまった。

 「えっ……えっと……優しくて、きれいで……」

 浅い。
 この子の答えは、驚くほど浅い。
 それでも、一生懸命言葉を探しているのが伝わってきて、少しだけ息が詰まる。

 「それだけ?」

 わざと間を置いて返した。
 その答えでは、私の何をも見えていないと教えるために。

 「え、他に何かあるの?」

 本気で首を傾げている。
 私が何者なのか、本当にわかっていない。

 「……やっぱり子どもだね」

 思わず口から出た言葉は、ため息のようでもあった。
 この子は、まだ表面だけを見ている。私の傷にも、底にも届いていない。

 「なんだよそれ!」

 怒ったような声。
 だけど、私の心には何も刺さらない。

 「ねぇソラ。私はね、自分がどう見られてるかくらい、もうとっくに知ってるの。慕香のせいで男は寄ってくるし、女は遠ざかる。だから“かわいい”とか“きれい”なんて言葉はね、もう何千回も聞いてるの」

 言いながら、手が止まる。
 水の冷たさが指先から消え、胸の奥に別の冷たさが広がる。
 これが現実だと、自分に言い聞かせる。

 「……」

 ソラは黙った。
 それでも目は逸らさない。
 その視線だけが、少しだけ私を苦しめる。

 「でも、ソラの言葉は……少しだけ違う気がするんだよね」

 口にしてから、しまったと思った。
 違う気がする──何が?
 私は何を期待している?

 「え?」

 無邪気な声。
 何もわかっていないのに、私を揺らす。

 「……なんでもない。はい、終わり。士官学校の勉強してきなさい」

 逃げるように言葉を切る。
 この子が追いつけない場所に、私の感情を押し込めるために。

 「ちょ、なんで急に終わらせるの!」

 子犬のような抗議。
 可愛い。でも、今はそれ以上聞かせない。

 「私が気まぐれだから」

 そう言って、笑ってみせる。
 その笑みが、自分でも驚くほど脆かった。

■ソラ、12歳後半・また今度、大人になったら

 夕方の鐘が遠くで鳴っていた。村の道は土埃を吸い込んだままの鈍い色で、空気には冷え始めた夜の匂いが混じっている。私は教会裏の古いベンチに腰をかけていた。束の間の休息。

 「エル、結婚したらどこに住みたい?」

 唐突な問い。
 ベンチの木肌が少しきしむ。

 「……質問の仕方が具体的になってきたね」

 声は自然と平らになる。
 子どもの夢なのか、それとも覚悟の入り口なのか。

 「だってさ、俺、一緒ならどこでもいいんだけど! 帝都でも、ハンサでも!」

 帝都。
 名前だけは知っている。
 でも、そこがどんな街かも、そこで暮らす人々がどんな目でこちらを見るのかも、私は知らない。

 「ふぅん……どこでも?」

 問い返す。
 その“どこでも”が、どれほど遠いかを知らないまま言えるのが、子どもの強さだと思った。

 「うん! あ、でも帝都の方がかっこいいかな。軍人っぽいし!」

 かっこいい、か。
 想像の中でなら、帝都はきっと輝いて見えるのだろう。

 「かっこいい理由がそれ?」

 笑うでもなく返す。
 私には、その街を想像で語る資格すらない。

 「だって! エルを大きな屋敷に住まわせたいし!」

 屋敷、ね。
 広さも煌びやかさもただの飾り。
 けれど──そこがただの家ではないことだけは、私にはわかっていた。

 「ふぅん……屋敷ね。じゃあソラ、お金はどうするの?」

 現実を突きつける。
 夢の輪郭を、せめて具体的に描かせるために。

 「えっ……そ、それは、頑張って稼ぐ!」

 動揺した声。
 稼ぐという言葉の中身は、まだ彼の中で空っぽだ。

 「どうやって?」

 さらに踏み込む。
 その空洞に、少しでも現実を詰め込ませたくて。

 「……えっと、軍で出世して!」

 出世──言葉だけの未来。
 見たこともない帝都で、その道がどれだけ険しいかなんて、彼は想像もしていない。

 「具体性ゼロだね」

 吐き捨てるような声。
 夢を見せるのは簡単。でも、それを支えるものは、まだ何もない。

 「う、うるさいな!」

 声が上ずる。
 勢いだけで世界を押し通せると思っているその目が、眩しくて、少し羨ましい。

 「……でも、ソラらしいね。勢いだけは一人前」

 私は肩をすくめる。
 勢いしかない子ども。それでも、その勢いがどれほど遠くまで届くのか、見てみたくなる。

 「勢いじゃなくて本気だって!」

 真っ直ぐな声。
 本気という言葉を、何も知らずに口にできるのは幸せなことだ。

 「はいはい。本気ね」

 軽く返す。
 これ以上踏み込むと、私まで本気にさせられてしまいそうで。

 「“はいはい”って何だよ!」

 食ってかかる声。
 少し笑ってしまいそうになる。

 「……また今度ね」

 投げるような言葉。
 また今度──その先がどれほど遠いか、この子はまだ知らない。

 「“また今度”っていつ!?」

 追いかける声が、子どもの必死さをそのまま映している。

 「大人になったら」

 即答。
 でも、私が言う“大人”は、この子が思う“大人”とはきっと違う。

 「もうそればっかり!」

 不満げな声。
 それでも諦めないのが、ソラらしい。

 「そういうことはね、大人になってから改めて言うものなの。たぶん。知らないけど」

 自分でも曖昧な言葉。
 でも、曖昧さの裏で、私は時間を稼いでいる。

 「……わかった! 絶対言う!」

 即答。
 この子の絶対がどれだけ脆いものか知っているのに、それを否定できない。

 「楽しみにしとくよ」

 声が少しだけ柔らかくなった。
 楽しみ。──本当に、楽しみにしているのかもしれない。
 でも、それを認めたくなくて、私は視線を空に逸らした。

■ソラ、13歳・立場じゃなく覚悟

 土を叩く音が続いていた。
 森の奥。朝霧がまだ溶けきらず、湿った冷気が肌に張りつく。私は迷彩柄のズボンと黒のタンクトップで、簡易の丸太を相手に体を打ちつけていた。掌の皮はもう硬くなっている。呼吸は荒くても、動きは崩さない。

 「エル……俺、本気で結婚したい」

 唐突な声。
 振り返ると、ソラが立っていた。
 その瞳の色が、いつもより深く見えた。

 「……あら、言い方が大人っぽくなった」

 皮肉を混ぜる。
 でも、心のどこかで、この子の言葉が少しだけ重くなったのを感じていた。

 「子ども扱いされるのはもう嫌なんだ。俺、もうすぐ幼年部を卒業して少年部に進むし」

 少年部。
 立場の変化を声にして、自分を大きく見せようとしている。
 私には、その必死さが手に取るようにわかる。

 「……なるほど。立場が変われば心も変わる、ってわけ?」

 打撃で熱を帯びた腕を組む。
 この子が“心が変わった”と言えるほどの重みを、本当に知っているのか確かめたくなる。

 「そうだよ。もう“子ども”じゃない。士官候補生として本気で言ってる」

 本気。
 彼の声は震えていない。
 幼さが残る顔と、本気という言葉が奇妙に噛み合っている。

 「ふぅん……士官候補生、ね」

 私は呼吸を整えながら呟く。
 “士官候補生”。響きは立派だけど、その肩書きが何を意味するか、この子はまだ知らない。

 「だから、ちゃんと答えがほしい」

 まっすぐな視線。
 丸太を叩いていた私の手よりも、その目のほうが鋭い。

 「……勢いじゃなくて?」

 問う声は試すようだった。
 この子がまだ勢いだけで生きているのか、それとも──。

 「勢いじゃない。本当にそう思ってる」

 真っ直ぐな声。
 森の湿った冷気を切り裂くような響きだった。

 「……言うね。でも、結婚っていうのは“立場”じゃなくて“覚悟”の問題だよ」

 私は両手の拳を開き、ゆっくり呼吸を整える。
 “立場”で語れるほど軽くはない。私にとってそれは、鎖にも似たものだから。

 「覚悟ならある」

 即答。
 その覚悟がどんな色か、私はまだ知らない。

 「そう言う子、何人も見てきた」

 吐き出すような声。
 期待と失望を繰り返す大人たちの顔が、頭の奥をかすめる。

 「俺は違う」

 反射のような声。
 違う──その言葉に、どれだけの重みがある?

 「……また今度」

 手短に切り上げる。
 今ここで答えを出すには、彼はまだ軽すぎる。

 「また今度って……!」

 苛立ちが滲む声。
 でも、その苛立ちこそが、少しだけ頼もしい。

 「焦らないの。少年部に進んだなら、ソラの言葉が本物かどうか、そのうちわかるから」

 ゆっくりと言い聞かせる。
 未来の時間に投げる。それが今の私にできる最大の優しさだった。

 「……絶対、証明する」

 握りしめた拳の音が聞こえそうなほどの決意。
 私の心に、静かな熱が落ちる。

 「……楽しみにしてる」

 最後の言葉は、少しだけ柔らかかった。
 その柔らかさを悟られないように、私はすぐに視線を逸らした。

■ソラ、13歳後半・命を背負うということ

 小さな命は驚くほど軽いのに、腕に抱えると世界のすべての重さを背負っているような気がする。
 教会の奥の部屋。孤児院を兼ねたこの場所には、新しい泣き声が増えた。
 まだ名もない赤ん坊。私は毛布を直し、耳元であやす。ミルクの甘い匂いと、古い木造の部屋の湿った香りが混ざっている。

 「エル」

 背後から声。
 その響きに、赤ん坊が一瞬だけ泣き止んだ。

 「なに?」

 振り向かずに答える。
 この子の呼吸のリズムを崩したくなかった。

 「……俺、エルと結婚したい。本当に」

 また、それか。
 でも、今回は少し違う。
 その声には、今までより深い影があった。

 「……」

 私は返事をせず、毛布の端を整える。
 言葉をすぐに返すには、その響きが重すぎた。

 「もう子どもじゃない。大人になっても、ずっとそばにいたい」

 大人になっても。
 彼の言葉は未来を見据えている。
 だけど、未来はこんなにも小さく泣いている命のように、簡単には守れない。

 「……考えてあげてもいいよ」

 ようやく答えた。
 軽い声色を装って、内側の揺れを隠す。

 「……っ!」

 息を呑む音が聞こえる。
 その反応に、少しだけ笑いそうになった。

 「でも条件がある」

 条件。
 それは彼の想像の外にある重さを教えるためのもの。
 腕の中の命が、そのまま答えになっていた。

 「条件?」

 戸惑う声。
 私の方をまっすぐ見ているのがわかる。
 でも、私は赤ん坊から目を逸らさなかった。

 「“お父さんになる”って、どういうことか考えておきなさい」

 赤ん坊の体温が腕の中でじんわりと伝わってくる。
 それは言葉で説明するよりも雄弁な答えだった。

 「……お父さんに?」

 ソラの声が少し震える。
 想像したこともなかったのだろう。

 「そう。結婚は、それと同じことだから」

 私は目を伏せ、赤ん坊の細い指が私の服を掴んでいるのを見つめる。
 それはか弱くて、それでいて離せない重さを持っていた。

 「……お父さん……」

 呟くような声。
 その言葉の意味が、少しずつ彼の中に沈んでいく音が聞こえた気がした。

 「命を背負うっていうのは、そういうこと。……軽く言える話じゃないんだよ」

 私は告げる。
 それは過去に何度も聞きたかったのに、誰からも聞かせてもらえなかった言葉だった。

 「……」

 ソラは黙っている。
 その沈黙は、子どもの無知ではなく、初めて知る重さを受け止めようとする時間だった。

 「だから、本当に考えて。答えは急がなくていいから」

 急がせる必要なんてない。
 今ここで返ってくる軽い返事より、これからの時間で深く育てた答えの方がずっと価値がある。

 「……わかった。ちゃんと考える」

 その返事に、私はほんの少しだけ笑みを浮かべた。
 この子が考え続ける限り、未来はきっとまだ変えられる。

■軍服と修道服

 神聖ヴェルメルデ帝国の辺境一区、ハンサ村。
 季節の境界を縫うように敷かれた農道を、一人の少年が歩いていた。松葉を圧搾したような千歳緑の軍服。その規律の色は、この土の匂いと混じるにはあまりにも異質だ。脇に抱えた赤い包装箱だけが、田舎の風景に不釣り合いな点滅のような存在感を放っている。パーン、と乾いた破裂音。森の奥から飛び出したのは野鳥か、それとも木々が軋んだだけか。

 ──異物。そう言い切ってしまえるほど、彼はこの村の景色から浮いている。

 農夫たちは手を止める。目は語らない。ただ、視線だけが刺すように言う。ああ、まだその気なのか、と。
 半年に一度。士官学校から帰郷するたびに、彼はこの村で同じことをしていた。

 少女に結婚を申し込む。

 教会に住む十六の少女。二つ年上の彼女は、仕立ての良い墨色の修道服をいつも纏い、凪いだ水面のような目でいつも彼を見返す。だが、その身分は奴隷だ。

 ──けれど、シスターは言った。少女が「いい」とさえ言えば、二人を隔てるものは何もない、と。

 だからこそ、これはすでに村の儀式のようになっていた。
 萌木色の春祭りにも似た、ささやかで、だけど誰もが知っている半期に一度の出来事。

 村人は予想している。どうせ、また同じ答えだ。
 結局、返ってくる言葉はこうだろう、と。

 「え? えーと……あ、じゃあまた今度、ね?」
 「あぁ……そっか。とりあえずまた今度ね」
 「──これ、帰ってくる度にやるの? ──また今度ね」
 「はいはい、また今度ね」。

 その「また今度」にどんな意味があるのか。
 わかっていてやっているのか。わかっていないふりなのか。
 どちらにせよ、今回もきっと「また今度」だろう。
 村人たちはそう決めつける。

 ──それでも、彼は歩みを止めない。

 セミが狂ったように鳴き続ける夏。
 今年の空気は例年とは違っていた。湿り気も、陽の匂いも、何かが混ざっている。

 パーン。
 森に響く破裂音。弾丸が五百メーラの木々の間を貫く。その射線が通る場所は一つしかない。エルが教えてくれた、あの場所だ。だから、ソラにとって探すのは容易だった。銃声を辿ればいい。ただそれだけのこと。

 ──いた。

 木漏れ日の中、そこに立つのはエル。
 野外活動モード。迷彩柄の戦闘ズボンに黒のタンクトップ。汗で張りついた布地の下、呼吸に合わせて肩がわずかに揺れる。
 左腕に刻まれた幾何菱文。黒く、鋭利で、ナイフで肉に彫り込まれたかのような文様。
 それが左半身全体に広がっていることを知るのは、ソラだけの秘密だ。

 士官候補生の目は、その戦闘服を「見慣れたもの」として処理する。だが、この田舎では異様に目立つ。
 けれどエルは気にしない。それは彼女の主人である元軍人のシスターが、奴隷である彼女に贈ったものだから。そして、お気に入りだから。

 ──服は人を守るものじゃない。心を守るものだ。そんな風に思えてしまう。

 エルは今日の訓練を終えたらしい。
 ライフルを脇に置き、身を伏せていたマットを丸めている。乾いた布が擦れる音。風に運ばれてくる火薬の匂いがまだ消えていない。

 枯れ枝が砕ける。落ち葉が跳ねる。わざとだ。ソラは大きな足音を立て、背後から近づいていく。
 半年間、遠く離れた地で焦がれ続けた姿が、今そこにいる。土に膝をつき、いつもの無駄のない動きで片付けをしている。

 「きたね。おかえり」

 くるくるとマットを丸めながら、エルが振り返る。半身だけをこちらに向け、視線が重なる。
 その瞳の中に自分がいる。忘れられていない。ほんのそれだけのこと。
 なのに、エルの「おかえり」は、ソラに自分の欠けた一部を返してくれたようだった。
 十年ぶりの再会のような感覚。そんな経験はないのに、そうだとしか言えないほど。

 ──きっと再会って、こういうことなのだろう。

 「ただいま。今日はもう終わり?」
 「うん。ちょうどね。八発当てて二発外した」

 エルは晴れの日はほぼ毎日、ここで十発だけ長距離射撃をする。
 それは護身のための習慣であり、同時に彼女に残された数少ない楽しみの一つ。

 「──けど、今日はこれからカモか何か鳥も獲るから。そっちが本命」

 ライフルの銃身がまだ熱を帯びている。遠くでカラスが鳴いた。夏の湿った風が髪を撫でる。
 そこでエルの目が動いた。ソラが抱えている、鮮烈な赤色の箱。

 「その箱は結婚のご相談ですか」
 「あ、はい。俺と──」

 結婚してください。そう続けようとした声は、淡々と遮られる。

 「待って。その話は帰り道にしよう。いまは獲物が先」

 ほら、と無言の合図。マットを手渡される。ホルダーの硬い縁が肩に食い込み、体温を奪う。
 ──結婚よりも、いまは狩り。そういう世界線で、彼女は生きている。

 森を抜ける頃には、陽は少し傾いていた。
 背に負ったマットが軋み、ソラの肩にかすかな痛みを残す。獲物は結局、手ぶらだ。エルはそれを気にする様子もなく、枝を踏みしめる音だけを連ねて進んでいく。

 ──言葉が続かない。結婚の話を切り出そうとして、また置いていかれた。いつもそうだ。
 追いつこうとしても、エルの背中はわずかに前を歩く。その距離が縮まらない。

 村の端に差しかかる。夏の匂いがする。干された麻布の匂いと、誰かが夕餉の準備で煮ている豆の匂い。風が頬を撫で、汗の塩が皮膚に乾いていく。

 その時、エルがふいに立ち止まった。
 振り返らずに、背中越しに言葉を落とす。

 「──“共連れ”になってくれたら、考えてあげてもいいよ」

 淡々とした声。だけど、その沈み込むような小ささが、かえって重い。

 「え、共連れ……?」

 口に出した途端、自分が間抜けに思えた。けれど、わからなかった。本当に何のことかわからなかった。

 「そう。今度ダルムバッハに行きたいんだけど、連れて行ってくれる?」

 彼女は奴隷だ。自分で汽車に乗ることもできない。だから頼む。そういう声だった。

 「いいけど……。そんなことでいいの?」
 「汽車賃とか、あとちょっとお願いを聞いてくれたらね」

 影が二つ、長く伸びて交わった。ソラの鼓動は耳の奥で膨らみ、言葉を飲み込む。

 ──“そんなことで”いいのか。いや、本当は、そんなことじゃないのかもしれない。
 ソラはまだ士官候補生だが、すでに軍人として扱われている。だから給金をもらっている。

 「……ああ。お願いって?」
 「それはまだ秘密。だけど、それを聞いてくれたら結婚のこと、考えてあげる」

 その軽やかな声に、ふと過去が滲む。
 ソラはもともと、この教会の孤児院で育った。
 そしてエルは、地方都市アルベルクで奴隷として売られていたとき、ある村人の慈悲によって買い取られ、ハンサ村へ連れてこられたあと、教会に寄付された。

 それから、エルは孤児院で働き、子どもたちの面倒を見るようになった。
 ソラも、その“面倒を見られた”うちの一人だ。

 ──だから、彼女の「考えてあげる」には重さがある。
 対等ではなかった頃の自分。憧れにも似た感情。
 過去と今が一瞬で重なり、言葉がうまく出てこなかった。

 ──一緒にダルムバッハへ行けば、結婚を考えてくれるらしい。
 妙な話だ。軽口なのか、本気なのか。それすらも測れない。

 それでも、エルのその応えを聞いてからというもの、ソラは落ち着かなかった。
 教会で馴染みの孤児たちとパンをちぎり合いながらも、視線は何度もエルを追った。
 浴室で麻のガーゼタオルを絞るとき、掌に伝う水の冷たさに彼女の声がよみがえった。
 干し草の詰まったベッドに沈み込んでも、瞼の裏には結局あの横顔があった。

 エルがダルムバッハに行くと言っていた日は、ソラの夏季休暇の最終日だった。
 ハンサ村から帝都までは馬車と汽車で片道八時間以上。
 その日程では往復は不可能だと伝えたが、エルはただ淡々と「帰りは一人でも大丈夫」と答えた。

 ──大丈夫、というその言葉が、大丈夫じゃないことの証明みたいで。喉が塞がった。

 休暇のあいだ、ソラは村に溶け込むように過ごしていた。
 農夫たちの手伝いをし、日が落ちると教会に戻り、孤児たちと夕餉を囲む。
 干し草の匂いと、煮豆の甘い香りと、蝋燭の揺らめき。そんなものが、帝都ではもう味わえないことを知っていた。

 エルはその間も、いつもの修道服で淡々と働いていた。
 だが、ソラのそばにいる時間が明らかに多かった。
 ──理由はわかっている。彼女には神に与えられた特殊な事情がある。
 ソラがそばにいれば、少なくとも「そういう目」で見られずに済む。

 だからソラは、できるだけ彼女の隣にいた。
 孤児たちと遊ぶときも、教会の掃除をするときも、時にはただ夕暮れの外階段で並んで座るときも。
 互いに多くを話すわけではなかったが、その沈黙には意味があった。

 ──守る、というより、ここにいる。
 それだけで、少しだけ世界が穏やかになる気がした。

 結婚の話をはぐらかされても、ソラは苛立たなかった。
 それがいつものことだと知っていたし、むしろ彼女がそうやって少し先へ逃げるからこそ、この距離は保たれている。

 エルもまた、多くを語らなかった。
 日が暮れると、孤児院の裏庭で洗濯物を取り込む。
 ソラは無言でその隣に立ち、湿った布の重みを分け合う。
 風が吹けば、まだ乾ききらない麻の匂いが二人の間を満たした。

 ──それでいい。

 言葉がなくても、ただそばにいること。
 それが二人にとって、最も安心できる状態だった。
 守っているのか、守られているのか、それさえはっきりしない曖昧な関係。
 けれど、いまのソラにはそれで十分だった。

 「──じゃあエルの足輪の登録をし直さなくちゃね」

 出発前夜。
 孤児たちと、そしてエルとともにいつもの夕食を終えたあと、シスターは席を立ちながら言った。
 その声は、祈りの後のように淡々としていた。

 足輪──正しくは縄索器と呼ばれる術具。
 奴隷や罪人の両足首に装着され、装着者の神聖力を吸い尽くし、追跡する。
 主人を中心とした行動可能範囲を設定し、登録された者の支配下でのみ存在を許される。
 許す、というより、縛るための仕組み。
 吸い上げた神聖力で自己修復を続け、骨の髄にまで食い込み、外すことも壊すこともできない。

 ──つまり、一度嵌められたら、生涯その身から離れることはない。
 それが当たり前のように語られることが、どうしても気味が悪かった。
 鎖が目に見えなくても、彼女は鎖につながれている。

 ソラは視線を落とした。
 エルの足首。その布の下にあるものを、見たくなかった。

 「さぁソラ、神聖力を込めて」
 「……出かけるだけなのに、こんなことするんですか?」

 ソラは訝しんだ。
 薄明かりの礼拝堂。蝋燭の炎が揺れ、影が長く伸びる。

 「ええ、そうよ。あなたを主人として登録するの」
 「でも、俺は行ったら半年帰ってこないのに……」
 「いいのよ。まぁ細かい事情はあとでわかるから。とりあえず、ほら」

 シスターの声は静かで、淡々としていて、逆らう理由を削ぎ落とす。
 床にひざまずいたエルが、何も言わず足首を差し出している。

 ──これも妙だった。
 エルは奴隷としては教会の所有物であるとはいえ、行動範囲の制限などないに等しい距離を設定されているはずだ。
 それなのに、どうして今さら俺が“主人”として登録される必要がある?

 答えは与えられない。
 ただ冷えた礼拝堂の空気が、問いを飲み込み沈黙に変える。
 腑には落ちなかったが、シスターの有無を言わさぬ仕草に気圧され、ソラは言われるままエルの右足首に手を伸ばした。

 普段は修道服の裾に隠れている、白い肌。足首から弓なりに伸びるふくらはぎの線に、一瞬だけ目を奪われる。触れてしまいそうになり──いや、何かの拍子で触れてしまえばいいとさえ思いながら、その奥に漂う体温と神聖力を吸い上げてほんのり温まった、グングラム鉄鋼製の足輪に指先を添える。

 シスターが先に神聖力を込め、文様が淡く発光する。光が呼吸するように脈打ち、そこにソラは自らの神聖力を流し込む。

 瞬間、重力がずれる。意識が遅れて身体に追いつくような感覚。世界が一歩遠くなる。
 呼吸が一拍遅れた。足元から体の奥に、冷たさとも熱ともつかない奔流が走る。

 「……できました」

 声は出たが、自分のものではないみたいだった。
 エルはそっと足を引き、修道服の裾を整えた。
 まるで何事もなかったかのように。

 けれど、その指先はわずかに震えていた。
 脛のあたりを一度撫でてから、すぐに手を離す。触れてはいけないものに触れた子どものように。

 「ありがと」

 それだけ。いつもの調子。
 だが、目は合わなかった。
 ソラの方を見ているようで、その奥のどこかを見ているみたいだった。

 ──きっと好きなものじゃない。
 彼女がどう思っているかまではわからない。けれど、少なくとも、この瞬間を楽しんでいるわけじゃない。

 一日だけか、それともそれ以上かはわからない。
 だが、これで足輪は「ソラがエルの主人である」と認識した。

 ──複雑な心境だった。
 好きな女の子の行動の一切が、いま自分の手中にある。

 胸の奥がふわりと浮いた。ずっと欲しかったものをようやく手に入れたような、甘い感覚。
 だが、その甘さに気づいた途端、心のどこかが冷えていく。

 これは奪ったのかもしれない。
 不当な手段で、誰かから大切なものをもぎ取ったときのような、満たされない罪悪感。

 ──それでも。
 期間限定であることが、惜しかった。
 いまだけで終わってしまうことが、どうしようもなく悔しかった。

 その感情の底には、一抹の不安があった。
 ──この旅のあと、エルは本当にこの教会に帰ってくるのだろうか。

 大丈夫。
 エルは「結婚を考える」と言った。
 なら、またここに戻ってくる。
 そう信じ、胸の奥で揺れる影を懸命に追い払う。

 「じゃあ、さっさと身体を洗っておやすみ。お前は朝に弱いんだから」

 言外に“エルと違って”という意味が込められているような口調だった。
 微かな棘。けれどそれは、朝が来るまでの不安をやわらげるための、形を変えた優しさでもあった。

 ──翌早朝。
 夜はほとんど眠れなかった。
 神聖力と足輪を通して、曲がりなりにもエルとつながっている。
 その事実が胸を締めつけるたび、鼓動が早まる。

 エルが言った「結婚を考える」という言葉。
 彼女の未来のこと。
 そして、自分と彼女の未来のこと。
 期待と不安がないまぜになり、頭の中を何度もぐるぐると巡った。

 それでも、夜明け前の空気は思ったよりも冷たく澄んでいて、熱を持った心臓を少しだけ鎮めてくれた。
 ──寝坊はしなかった。

 目を閉じたまま、息を整える。
 足輪を通じて、エルの居場所がわかる。
 彼女はもう起きて、教会の中を移動している。

 こんなことまで、わかってしまうのか。

 体の奥でぞわりとしたものが走った。
 自分の神聖力が、あの足輪を介して彼女に絡みついている。
 まだ視界には入っていないのに、彼女の存在が肌の下で生きている。

 起き上がれず、ベッドの上でただ時間を潰す。
 早朝の冷気が頬を撫でるのに、頭の奥は熱くて、落ち着かなかった。

 まだ早いだろうか──そう思いつつも、これ以上ベッドにいても落ち着かない。
 胸の奥がそわついて、寝具がただの重しに変わっていた。
 ソラは深く息を吐き、身体をベッドから引き剥がした。

 廊下。食堂。台所。
 誰もいない。
 しんと張り詰めた静けさ。虫の声だけが、夜の帳がまだ完全には明けていないことを告げている。

 顔を洗い、冷たい水で熱を持った頬を鎮める。
 勝手口から裏へ出ると──エルがいた。

 やっぱり。
 でも、思った以上に早い。

 いつもの修道服。
 蔦の這うレンガの壁に背をもたせ、身体の前で手を組み、親指同士をくる、くる、と回しながら、エルは向こう側──草雲雀の鳴くあたりを見つめていた。

 夜明けを惜しむような、リリリ──というか細い鳴き声。
 その音を背景に見るエルのうなじは、どこか哀しげな気配をまとっているように見えた。

 そこでソラは気づいた。
 髪が十サンチほど短くなっている。
 すっきりとしたショートカット。
 ──昨日までの彼女とは、少し違う。

 胸の奥で何かがちいさく軋んだ。
 変わっていくのは髪だけじゃないのかもしれない。

 一瞬、声をかけるのをためらった。
 背中越しに見えるのは、夜明け前の光を受けて淡く透けるエルの髪と、修道服の裾が風にわずかに揺れる様子。
 草雲雀の鳴き声がまだ続いている。遠くで鶏が鳴き、村の朝が目を覚まし始めていた。

 息を吸い込む。胸の奥がきしむ。
 いま声を出したら、この静かな絵が壊れてしまう気がした。
 それでも──振り絞る。

 「……早いね」

 振り返ったエルの顔は、どこか寝不足の影を落としていて、それがまた彼女を遠く見せた。

 「──あんまり眠れなかった。……着替えてきなよ、もう馬車来てるよ」

 その声が、朝の冷たい空気を震わせる。
 心の奥がざわめき、胸に小さな痛みが広がった。

 「……なんて勤勉なんだ」

 視線の先にあったのは、夜明けの靄に沈む一台の馬車。
 馬車といっても、立派な幌も座席もない。
 ただの荷台に簡素な手すりを取りつけただけのものだ。

 剥き出しの木材はところどころささくれ立ち、夜露を吸って暗く濡れている。
 二頭の馬が鼻を鳴らし、白い息を吐いて立っていた。
 車輪は手作りのように粗雑で、濡れた地面に沈み込みながら、わずかにきしんでいる。

 昨日、村の小間使いに頼んでおいたものだ。
 夜明け前に来てくれと言っても、渋い顔ひとつ見せなかっただけのことはある。

 荷台には干し草が薄く敷かれ、角には布に包まれた小さな荷物が置かれていた。
 古い木と馬の汗、湿った草の匂いが鼻をくすぐる。
 ──旅立つというより、少しだけ村を離れるだけ。
 そんな現実感のある匂いだった。

 「朝ごはんは馬車で食べよう。用意しといたから」

 エルの声が、ひんやりとした朝の空気を和らげた。
 村はまだ眠っていた。
 低い石垣に囲まれた畑は夜露を帯び、か細い茎が冷えた風に震えている。
 藁葺き屋根の家々は煙突からかすかな白煙を吐き、昨日の焚き火の匂いを残していた。

 土の道には、夜のうちに馬か犬が歩いた小さな足跡がまだ新しい。
 遠くで鶏が鳴き、どこかの戸がきしむ音が響く。
 それだけが、この村が目を覚ましつつある証だった。

 ──貧しい村。
 それでも、この場所がエルの帰る場所であり、ソラの原点だった。

 急いで部屋に戻り、村にいる間はクラブバッグに押し込んだままの千歳緑の軍服を、手もどかしく引っ張り出す。
 雑に詰められていたせいで、変な折り目がつき、しわしわになっている。
 ──げんなりする。
 最低限、エルの品位を損なわないようにと、掌で必死にシワを伸ばす。だが、生地は頑固で、努力が無駄だと悟る。

 それでも、シャンクボタンをひとつひとつ留めると、少しだけ軍服らしい形になった。
 革の匂いが残るベルトを腰に巻きつける。かすり傷の目立つそれを、ややきつめに締めた。
 息が浅くなる。

 ──これでいい。いや、これでいくしかない。
 歪な軍服のまま、今日が始まる。

 ──そういえば、エルが着る服は限られている。
 昼間は仕立ての良い墨色の修道服。夜は薄手の寝間着。
 そして森へ出る日は、迷彩柄の戦闘ズボンに黒のタンクトップ──彼女が「野外活動モード」と呼ぶ服装だ。
 その三つ以外で彼女を見たことはない。

 唯一の例外は、彼女が初めて教会に連れてこられた日の記憶だ。
 奴隷として売られていた少女が着ていたのは、色の抜けた麻袋を引き裂いたような布きれ。縫い目はほつれ、裾は泥で重く、肩紐は今にも千切れそうだった。
 それでも、当時の彼女は何も言わず、ただその服を着て立っていた。

 ──あの時の光景が今も頭を離れない。
 端正な修道服も、実用一点張りの戦闘服も、そのときの痛々しい布切れも、すべてが同じ人間を包んでいる。
 そう思うと、胸の奥が鈍く疼いた。

 表に出ると、エルはすでに荷台に腰かけていた。
 荷台といっても、外れの村にあるものだ。
 粗く削られた板が打ちつけられただけの簡素な作りで、夜露を吸った木の匂いが鼻をかすめる。
 二頭の馬が白い息を吐き、耳を小さく震わせている。

 ソラも荷台に上がり、エルの隣に腰を下ろした。
 板のきしみが響き、朝靄の中で小さな音が広がる。

 「ダルムバッハまで行くのに、エルは服はそれでいいの?」

 問いかける。ほんの会話のつもりだった。

 「……何をいまさら」

 視線を合わせずにそう言った。
 それは突き放しでも茶化しでもない。
 修道服と寝間着、そして野外活動用の戦闘服──彼女の衣服は、それで全てだ。
 自分には他の選択肢がないという現実を、あえて言葉にするまでもないという響きだった。
 ソラは言葉を飲み込み、彼女の横顔を見つめるしかなかった。

 「いや、そうだけど……動きにくそうだと思って」

 思わず口にすると、エルは横目でこちらを見て、口元だけで笑った。

 「それで言ったらソラのその格好だって動きにくいでしょ。軍服って……。かっちりしすぎじゃない?」

 その言葉に、反論できなくなる。
 士官候補生用の千歳緑の軍服。
 きちんとした装いのはずなのに、笑い混じりでそう言われると、ただ窮屈なだけの服に思えてくる。

 バツの悪さをごまかすように、上着の裾を引っ張った。布がぎしりと張って、さらに居心地の悪さが増す。
 ──これでもまだ候補生用の簡素なものだ。本物の士官の軍服はもっと仰々しい。
 そう思うと、息苦しさが胸の奥に沈んでいく。

 エルは修道服のまま、膝の上で指を組み、視線を前へ向けている。
 まるで自分だけが、余計な殻を着込んでここにいるような気がした。

 「いいんだよ、俺だって外行き用はこれしかないんだから。ダルムバッハに戻れば他に──」

 少しだけ間を置き、照れ隠しのように言葉を継ぐ。

 「エルだって、そのヒラヒラで水たまり入ったりしないようにね」

 修道服はワンピース仕立てで、裾が足首の下まで届く。
 墨色の布は厚手で、質素ながら丁寧に織られており、動くたびにひそやかに衣擦れの音を立てる。
 それが足輪をすっぽりと隠してくれる。
 だからこそ、彼女はこの服を着て外に出られるのだ。

 けれど、外を動き回るには不向きだ。
 長い裾は湿った土や草に触れやすく、ちょっとした段差でも足さばきを鈍らせる。
 ──それでも、エルは当たり前のように着ている。
 彼女にとっては選択肢のない「普段着」なのだ。

 ソラは言いながら、裾の奥に隠された銀の足輪のことを意識してしまう。
 見えないはずのそれが、ずっとそこにある。

 「お願いします」

 エルが御者に短く声をかけ、馬が鼻を鳴らす。
 荷台がわずかに沈み、ソラとエルの身体が揺れた。
 軋む音とともに、馬車はゆっくりと前へと進み出す。

 村の大通りと呼ぶにはおこがましい、ただの土の道。
 車輪が濡れた泥を踏みしめ、ぬかるむ音が足元から響いてくる。
 朝靄はまだ完全には晴れず、藁葺き屋根の家々が輪郭を曖昧にしている。
 焚き火の残り香と、濡れた木材の匂いが混じり合い、旅立ちの匂いと呼ぶには素朴すぎる空気を作っていた。

 エルは無言のまま、前を見ている。
 修道服の裾が荷台の木肌にかかり、衣擦れの音だけがささやくように響く。
 ソラは隣で、膝の上に置いた手をどうにも落ち着かせられず、軍服の裾を指先でいじっていた。

 道の脇で犬が一匹、こちらをじっと見ている。
 見送っているのか、ただの興味か。
 ──村の人間が見送るわけでもない。
 早朝のこの道を知っているのは、犬と鶏と、自分たちだけだ。

 御者台から、御者が軽く咳払いをする。
 その音がやけに大きく響いて、ソラは少し背筋を伸ばした。

 村の外れに近づくにつれ、道はさらに荒れていく。
 車輪が石を踏み、荷台が跳ねるたび、ソラの体が小さく揺さぶられる。
 隣のエルもわずかに身体を傾けるが、姿勢は崩さない。
 ──この人は、こういうときも全然ぶれないんだな。
 そう思いながら、ソラは自分の足元を見て、革靴の先で泥をかき混ぜた。

 まだ村の匂いが残っている。
 湿った土の匂い。牛小屋から漂ってくる獣の体温のような匂い。
 それが、少しずつ、風に流されて遠のいていく。

 ふと振り返ると、教会の塔が小さく見えた。
 赤茶けたレンガの壁に、朝日がうっすらと差し込んでいる。
 屋根の端には、磔刑に使われるためだけの十字の木枠が、無言で立っていた。
 祈りのためではなく、罰のための形。
 その影が、地面に長く伸びていた。

 ──あそこに帰ってくるのか。
 それとも、もう戻らないのか。

 考えても、答えは出ない。
 ただ、馬車は淡々と村の外へと向かって進んでいく。

 村を抜ける道は、思った以上に長い。
 畑が途切れ、土の匂いが薄れていく。
 代わりに鼻をつくのは、湿った草の匂いと、夜露の残る木々の青い匂いだった。

 荷台はごとごとと音を立て、時折、石を踏んで大きく揺れる。
 ソラは慣れない衝撃に足を突っ張って耐えた。
 隣のエルはまるで揺れを受け流すように、上体をほとんど動かさず座っている。
 淡々と前だけを見つめる横顔は、感情の揺れを一切見せない仮面のようだった。

 村の家並みがもう見えない。
 ふと背後を振り返ると、赤茶けたレンガの教会の塔だけが、まだ朝靄の中に小さく浮かんでいる。
 その屋根の端に立つ磔用の木枠が、無言でこちらを見下ろしていた。
 それは村の象徴というよりも、帰属の証──自分たちがどこから来たのかを刻みつける無言の印のように思えた。

 エルはまだ前を向いたまま。
 ソラは何度も何度も振り返りたくなる衝動を抑え、視線を落として拳を握った。

 馬の足音と、車輪が土をかき分ける音。
 御者のときおりの咳払い。
 それ以外の音はない。

 時間が伸びる。
 村を離れるということが、こんなにも静かで、こんなにも重いのかと初めて知った。

 村の家並みが、もう見えない。
 畑も、石垣も、低く立つ煙も──全てが靄の向こうに溶けていった。
 ふと背後を振り返る。

 赤茶けた教会の塔が、朝靄の中にひとつだけ浮かび上がっていた。
 その屋根の端に立つ、磔用の十字の木枠。
 それは、ただの建築物ではなかった。

 以前なら、そこを振り返ることに意味があった。
 エルがいたから。自分が帰る場所だったから。

 けれど、今は違う。
 エルは隣にいて、馬車は前に進んでいる。
 戻ることを前提にした旅ではなく、まだ見ぬ何かを含んだ移動。
 帰り道を意識するのではなく、地図に存在しない感情の先へと連れ出されているような感覚。

 この先、何が起きるのか。
 どこまで行って、何が決まるのか。
 何も決まらないまま戻る可能性もある。

 ソラは振り返ったまま、もう一度その塔を見た。
 そこにエルはいない。
 そこに、もう以前と同じ意味はない。

 ──まだ始まってすらいないのに、何かが変わりはじめていた。

 道がなだらかな下りに入り、馬車の車輪がときおり小石を弾く音が響く。
 空はすっかり明るくなっていた。
 朝靄は遠くへ引いて、草原の先に見える防風林の線がくっきりと浮かんでいる。

 ダルムバッハまでの道は何度も通っている。
 士官学校の長期休暇ごとに、この道を、逆方向から帰ってきた。
 けれど今、足が向かっているのは「帰り道」ではない。
 今回は、何かが違う。

 だからだろうか。
 ふいに、声をかけたくなった。
 沈黙が続きすぎると、言葉のひとつも宙に投げたくなる。

 「──で、エルの用事って……何しに行くんだっけ」

 エルは返事を急がなかった。
 馬車の揺れに合わせて、わずかに背をゆらしながら、草原の先を見ていた。

 やがて口を開く。

 「ちょっと、ね。人に会うの」
 「ふうん……」

 思ったよりも簡素な答えだった。
 誰に会うのかも、どうして会うのかも、何も言わない。

 ソラは追及するのをやめた。
 その答えが、すでに用意されていたような気がしたからだ。
 はぐらかすというより、最初から核心に触れさせないための返事。
 そう──それは、「見せない」と決めた人間の静かな防御。

 修道服の裾が風でわずかに揺れた。
 その下に足輪があることを思い出し、視線を逸らす。
 誰かに会いに行くという言葉が、いつになく遠く感じられた。

 馬の歩調が少しずつ早まり、御者の姿が陽の中に溶けていく。
 荷台に残された静寂だけが、かえって会話の重さを浮かび上がらせていた。

 「──朝ごはん、もう食べる?」

 エルの声は荷台の揺れに溶けて、少し柔らかく響いた。

 「うん」

 ソラは頷き、渡されたサンドイッチを手に取る。
 馬車の振動が一定のリズムで体に伝わり、その不安定な中でパンを頬張ると、塩気の効いたハムと、少し辛味のある葉野菜の味が舌に広がった。
 こんな何でもない食事が、旅の朝を実感させる。

 「──ていうか、エル身軽だね」

 視線を向けると、彼女の足元にはバスケットがひとつあるだけだった。
 まるでピクニックに行くような風情。
 だが、ここからダルムバッハまで片道八時間以上。
 用事を済ませるなら泊まりになるだろうに、着替えも何もない。

 エルは少しだけ口角を上げて、まるで当然のことを言うように返した。

 「……服もそうだけど、私、奴隷だよ。持って行くようなもの、持ってないよ」

 失言だった、とソラは思う。
 だが、その瞬間、自分の中に小さな違和感が残った。

 エルの口ぶりは、ただの事実の羅列に聞こえた。
 悲しみも、卑下も、諦めもなかった。
 それがかえって不自然だった。
 ──何かを隠している。
 そんな考えが、胸の奥でざわつきとして残った。

 馬車はそのまま淡々と進む。
 揺れる視界の向こう、草原の緑が陽に照らされて眩しい。
 パンを咀嚼しながらも、ソラはエルの言葉の残響をどうにも飲み込めずにいた。

 シスターに借りればいいのでは──と喉まで出かかった言葉を、ソラは飲み込んだ。
 代わりに、エルは先に答えを出すように口を開いた。

 「それに、何か足りないものがあったらソラが買ってくれるでしょ。ご主人さまなんだから」

 軽く笑って、サンドイッチの端をかじる。
 言葉だけを抜き取れば冗談のようだった。
 けれど、声の底に冷えた水面のような平らな響きがあって、それがどこか本気にも聞こえた。

 なんだ、そういうことか──と、ソラは思った。
 しかし胸の奥では、別の感情が波立っていた。

 ご主人さま。
 足輪を通して形式的に登録された、自分の立場のこと。
 そう言われることで初めて、それが「形」だけではない現実として重さを帯びる。
 旅の間だけのものとわかっていても、身体の奥で熱を帯びるものがあった。
 所有と呼ぶには脆く、けれど一方的な力の関係がそこにある。

 パンの咀嚼音と、車輪が土をかき分ける音。
 馬の息づかい。
 旅の音が混ざり合う中、ソラは上着の裾を指先で強く握りしめ、内側のざわめきを押し込めた。

 「ご主人さまなんだから」
 そう言ってエルはパン屑を払う仕草をして、まるで話題が終わったとでも言うように視線を前に戻した。

 ソラは言葉を探した。
 何を言えば、この沈黙を埋められるのか。
 けれど見つからない。

 「……で、本当は何しに行くんだ?」

 結局、直接的な問いを投げるしかなかった。
 エルはわずかに首を傾けると、頬杖をつき、薄く笑った。

 「何だと思う?」
 「いや……知らないよ」
 「だったら考えてて。正解は会ってからのお楽しみ」

 はぐらかされた。
 あえて答えないのではない。
 最初から、その答えをソラに渡す気がない。
 そういう声色だった。

 もう一度何かを言いかけたが、ソラはやめた。
 押しても扉が開かないとわかっているものに、これ以上力を使う気になれなかった。

 馬の足音と車輪の軋みだけが、再び二人の間に戻ってきた。
 その沈黙は、さっきよりもずっと重かった。

 しばらくして、道の脇に柵が現れはじめる。
 乾いた風が吹き、草の匂いが薄れていく。
 農夫の姿ももう見えない。

 遠くで鳥の群れが旋回していた。
 湿った土の匂いに混じって、焦げた油のような匂いが鼻をかすめる。
 近郊の工場群から漂ってくる煙だ。

 地面は硬い砂利道に変わり、車輪がごつごつと音を立てる。
 馬の呼吸が少し荒くなる。
 人の声がちらほらと聞こえ始めた。
 見慣れたはずの風景なのに、今日は違って見えた。
 街へ帰る、ではなく、街へ踏み込む──そんな感覚が胸に広がる。

 エルは荷台の端に座り直し、まるでそれを迎える準備でもするように、スカートの裾を整えていた。

 前方に、大きな屋根が見えた。
 ダルムバッハ行きの汽車が発着する、小さな駅だ。

 白い壁と赤い瓦屋根。
 駅舎の前には旅人や荷物を抱えた商人たちが集まり、馬車の列が途切れなく出入りしている。
 油の匂いと人いきれが重なり、田舎道の澄んだ空気はもうない。

 御者が短く手綱を引く。
 馬車が減速し、ぎしぎしと木が軋む音が大きくなった。
 その音が、ソラには汽笛よりも重く聞こえた。

 「……着いたね」

 エルが小さくつぶやいた。
 ソラは頷くことしかできなかった。
 これから何が起こるのか。
 考えても、答えは出なかった。

 馬車が止まると同時に、ざわめきが押し寄せてきた。
 馬の息づかいと御者の短い声、その背後で響く荷台の積み下ろしの音。
 駅前の広場には、旅人や商人が群れをなし、売り声や取引の声が交錯している。油の焦げた匂い、石畳の熱に染み込んだ昨日の雨の湿気、干からびた果物を積んだ屋台の甘い匂いが、重なり合って鼻腔に届いた。

 ソラは軍服の裾を整え、深く息を吐いた。
 見慣れているはずの駅舎が、今日はやけに大きく、遠く感じられる。
 赤い瓦屋根の下で、金属製の時計が無遠慮に時を告げていた。

 エルは先に荷台を降り、裾を踏まないように持ち上げながら、迷いのない足取りで駅舎の方へ向かっていく。
 修道服の墨色が、雑多な人の群れの中で不思議な静けさをまとっている。
 ソラはその背に目を奪われ、慌てて後を追った。

 切符売り場の前には長い列ができていた。
 並ぶ人々の服装は、農夫の粗末な麻布の衣から、金糸の縫い取りが施された外套までさまざまだ。
 油で固められた髪の匂いと、獣の皮の匂い、汗の混じった人いきれが充満している。

 「……ソラ、買ってきて」

 エルがそっと言った。
 それは命令でも依頼でもなく、ただ当然のこととして口にされた。
 ソラは頷き、財布を取り出す。
 ポケットの中で硬貨がからりと鳴った。

 順番が来て、窓口の小柄な駅員が顔も上げずに切符を差し出す。
 手のひらに触れた厚紙が、妙に現実的な重みを持っていた。
 片道八時間以上。
 それは、ただの紙ではなく、日常からの隔たりを保証する通行証だった。

 ホームに出ると、目の前には下りの汽車が停まっていた。
 こちら側、ハンサ村方面の車両。
 煤けた鉄の車体から白い蒸気が吐き出され、金属の匂いが風に混じって漂ってくる。
 乗り込む人々の姿がちらほらとあり、馬車の荷を積み込む音が遠くで響いている。

 だが、自分たちが乗る上りはまだ来ていない。
 駅員が立て札を掛け替えるのが見えて、あと十分ほどかかるとわかった。

 「……来てないね」

 エルがそう呟き、荷物代わりの小さなバスケットを足元に置いた。
 ソラは無言で頷き、軍服のポケットに手を入れた。

 待ち時間というのは、どうしてこうも落ち着かないのか。
 ただ立っているだけなのに、体の芯がむずがゆい。
 聞きたいことがいくつもあった。
 ダルムバッハで誰に会うのか、どうして自分を連れて行くのか。
 けれど、ここで問いかけたところで、エルが答えるとも思えない。

 ホームの向こう側、下りの車両から降りてきた乗客が談笑しながら去っていく。
 旅の終わりの顔をしている人々と、これから旅を始める自分たち。
 それだけで、この場所が境界線のように思えた。

 エルは黙って線路を見つめていた。
 細い足首に絡む足輪の感触を、ソラは意識してしまい、すぐに視線を逸らした。
 時間を埋めるために、ソラは話を振った。

 「で、ダルムバッハには、何の用で行くんだ?」

 エルは少しだけこちらに顔を向けたが、答えは簡素だった。

 「人に会うの」
 「誰に?」
 「秘密」

 そこで会話が途切れる。
 ソラは話題を変えた。

 「俺がいない間、村ではどうだった?」
 「特に何も」

 淡々とした返答。
 それ以上は続かない。
 彼女が話したがらないのか、自分が聞き出すのが下手なのか。
 いずれにせよ、言葉は空気に溶けて消えていく。

 足元の石畳に目を落とし、沈黙が重くなっていくのを感じる。
 近くで売られている揚げ菓子の甘ったるい匂いが漂い、余計に居心地が悪くなった。

 ホームに置かれた時計の針がじりじりと進む。
 十の数字を指し示す前に、遠くから低い轟きが近づいてきた。
 レールの振動が靴底を震わせ、かすかな風がホームの空気を押し動かす。

 「来たね」

 エルがぽつりと言った。
 視線の先に、黒い車体が近づいてくる。

 蒸気の白い靄が広がり、金属の匂いと熱気が一気に押し寄せる。
 ソラは深く息を吸った。
 会話の残り火のようなざらつきを、肺の奥で押し殺すように。

 低くうねるような地鳴りが線路の奥から迫ってきた。
 レールが鳴き、ホームの床がかすかに震える。
 黒鉄の巨体が蒸気を吐き上げながら姿を現す。
 煤で黒光りする車体が、軋む金属音とともにホームを覆い尽くした。
 それは見慣れたはずの光景だった。

 ソラにとって、汽車は半年ごとに往復するただの移動手段だ。
 帝都ダルムバッハとハンサ村をつなぐ、時間を埋めるだけの道具。
 だが今日のそれは違って見えた。
 この旅の意味が、ただの帰省や帰還ではないことを、無言で突きつけてくる。
 その差異が、鉄の塊を異様なほど大きく感じさせた。

 エルが修道服の裾を押さえ、初めて見るものに近づくような慎重さでホームの端まで歩く。
 その仕草のどこかぎこちないところが、彼女が滅多に汽車に乗らないことを物語っていた。

 ソラは一歩先に進み、先導するようにステップを上がる。
 鉄の手すりの冷たさが掌に張り付き、足元から伝わる重い響きが体内に沈んでいく。
 慣れたはずの感覚が、なぜか今日は落ち着かない。

 エルも後を追い、扉をくぐった。
 中は油と鉄と人いきれの匂いで満ちていた。
 革張りの座席が軋み、会話と荷物のぶつかる音が交錯する。
 エルは一瞬立ち止まり、周囲を見回した。
 その横顔に浮かんだ小さな緊張が、ソラの胸にちくりと刺さる。

 扉が重く閉じ、汽車が内部の熱を吐きながら唸り続ける。
 車内の鈍い明かりが現実を支配し、外の世界はもう遠い。

 革張りの座席は使い古され、背もたれの縫い目に小さな裂け目がある。
 車輪が重く回り始め、鉄路を噛む規則的な振動が足元から伝わってきた。
 ソラにとっては何度も経験した感覚だ。だが、今日は違う。
 半年ごとに繰り返してきた単なる帰路の一部ではなく、不可逆な何かが始まる予兆を帯びている。
 そのせいで、馴染んだはずの鉄の匂いさえ、胸の奥をざわつかせた。

 エルは窓際に座り、視線を外に固定したまま動かない。
 村の駅を離れるとすぐ、空は赤みを帯びた灰色に変わり、夜と朝の境界が後方へと遠ざかっていく。
 その光を、彼女は見逃すまいとでもいうように、まばたきもせず追い続けていた。
 汽車に乗り慣れない者の、緊張と好奇心の入り混じった視線。
 ソラはその横顔を盗み見ては、何か話しかけようとしたが、言葉は空気に紛れて消えていった。

 村を離れて一時間もすると、窓外は見渡す限りの丘陵地帯となった。
 青く茂る麦の穂が風にたなびき、線路沿いの林からは鳥の声が絶え間なく響く。
 季節は盛夏。車内の空気は早くも湿り気を帯び、吐息が重くなる。

 ソラは再び口を開く。

 「ダルムバッハで、誰に会うんだ?」

 エルは少しだけ首を傾けたが、答えは一言。

 「人」
 「……誰?」
 「秘密」

 それ以上は続かなかった。
 会話の糸口は見つからず、沈黙が二人の間に根を下ろす。
 汽車の揺れが、むしろその沈黙を強調しているように感じられた。

 途中駅で乗客が入れ替わる。
 農夫風の男が大きな籠を抱え、軍帽をかぶった中年兵士が乗り込んできた。
 それぞれが会話し、荷を置き、匂いとざわめきが満ちていく。乾いた藁の匂いと金属の油の匂いが入り混じり、長旅の汗と汽車の鉄臭さに重なって、車内の空気をさらに濃くした。

 そんな雑踏の中でも、エルはひとり外を見つめ続け、村の延長のような景色を眼に焼き付けていた。眼差しはどこか遠く、目の前を過ぎる畑や林を見ているのか、もっと先の何かを見ているのか判然としなかった。

 やがて太陽が車内を白く照らす時刻になった。時計の針なら十一時を指している頃だ。朝から座りっぱなしの身体はじわじわと重く、硬い座席に押しつけられた尻や背中には鈍い痛みがこもっている。ソラは軽く伸びをして背を鳴らすと、持ってきたサンドイッチを取り出し、エルにも差し出した。

 「食べる?」

 靴を脱いで向かい側──ソラの側のシートに足をかけて膝を抱えていたエルは小さく頷き、ためらいなく受け取った。脱いだ足裏に触れる床は冷たく、汽車の細かな振動がそのまま伝わる。
 昼食と呼ぶにはささやかな食事。だが、腹を満たす以上の意味があった。
 言葉はなくても、一緒に食べるというだけで、どこか少しだけ近づけた気がする。

 満腹のあとの眠気が車内を支配する。
 車輪のリズムが子守唄のように続き、幾人かは座席で眠りこけていた。
 ソラも目を閉じたが、眠りには落ちきれない。
 隣のエルが時折姿勢を直し、窓外を見やる気配だけが、意識の底で途切れず残っていた。

 午後に差し掛かると、景色が変わる。
 草原は消え、無骨な石造りの小屋や、煙突から煤を吐き出す工場が現れた。
 焦げた油と煤煙の匂いが窓の隙間から入り込み、肺を重たくする。
 都市の匂いだ。帝都が近いという合図だった。

 エルは初めて、窓から視線を引き、息を吐いた。

 「……変わってきたね」

 その声は、旅の終わりを知る者のものでも、何かを覚悟する者のものでもあった。

 ソラはその声をどう受け止めればいいのかわからず、ただ頷く。
 この旅の本当の目的も、彼女の真意もわからない。
 わかるのは、帝都という巨大な口が、自分たちを飲み込もうとしているということだけだった。

 列車は速度を落とし、連結部の軋む音が長く尾を引く。
 窓の外には整然と並ぶ建物群、石畳の広い道路、列をなす馬車と人々。
 田舎の景色は完全に消え失せ、帝都ダルムバッハの輪郭が目前に迫る。

 ソラは深く息を吸った。
 半年ごとに訪れてきたはずの街が、今は異質な重みを持って見えた。
 エルは黙って座席の端で手を組み、指先に力を込めている。
 その仕草の意味を、ソラは問えなかった。

 ──軍服の少年と修道服の少女の長い旅路は、こうして始まった。

■エルとの遠出

 神聖ヴェルメルデ帝国、帝都ダルムバッハ。
 皇帝の直轄領、人口二百万人の大都市。
 鉄と石と権力の匂いが混じり合い、遠くからでもその息吹が伝わってくる巨大な器。

 丘の上から眺めれば、緋色の屋根がうねるように連なり、無数の家々が地平線の端まで波打っている。
 その隙間を縫うように、白い石畳の歩道が血管のように張り巡らされ、車輪で削られた轍が深く刻まれた道路には、馬車と人々が途切れることなく行き交う。
 まるで巨大な生き物の体内を覗き込むような光景。
 かつて村から出るたびに圧倒されてきた景色も、いまはソラの「生活圏」になっている。だが今日は少し違う。
 隣に、エルがいる。

 汽車で帝都を訪れる者をまず迎えるのは、威風堂々たるトレイン・シェッド。
 何十本ものターミナルを覆い尽くす、煤けた鉄骨と曇りガラスの天蓋。幾重にも連なるアーチの骨組みが天空を支え、そこに嵌め込まれた無数のガラス窓は煤に曇りながらも白い陽光を受けて鈍く煌めく。
 天井近くでは巨大な換気管が吐息のように蒸気を噴き、白い霧が薄く漂う。圧搾空気の音が至る所で弾け、機関車のシリンダーが唸りを上げる。

 たったいま発射する汽車の汽笛が、鋼鉄の梁を震わせながら腹の底に響き、構内を満たす。反対側の線路では、たったいま到着したばかりの車両が耳をつんざくブレーキ音を立て、鉄と鉄が軋む甲高い悲鳴を上げる。
 さらに奥からは、家畜をしこたま積んだ貨物列車からの鳴き声が、まるで壁面を這うように反響して届く。馬のいななき、羊の短い鳴き声、羽ばたく音──それらが天井の高みに溶けて混じり合い、都市の獣道のような生命感を撒き散らす。

 通路では、革鞄を担いだ商人たちが怒鳴り合い、荷車を押す労働者が軋む車輪を引きずりながら人波をかき分ける。油で濡れた鉄の匂いと、石炭の煤煙、それに長旅の人間の汗が混じり合い、ひとつの重い空気となって鼻腔を満たす。
 子どもの甲高い笑い声と、老婦人の叱責、笛の短い合図、遠くで蒸気弁が弾ける音──無数の音が混線しながらも、都市の律動として鳴り響いていた。

 まるで神殿のような威容でありながら、生き物のような息遣いを持つ巨大な機構。鉄道という文明の象徴が、全身を軋ませ、蒸気を吐きながら、旅人を飲み込んで吐き出す。

 その物々しい屋根の下で、エルは立ち止まり、上を見上げた。
 淡い光を浴びた、赤みを帯びる黒髪が短く揺れる。
 目の奥に驚きが宿り、それを隠そうとするように唇を結ぶ。
 汽車の旅を終えたばかりの彼女の姿は、異邦の者が門をくぐったばかりの巡礼者のようにも見えた。

 その視線を見て、ソラは奇妙な誇らしさを覚えた。
 自分が造ったわけでも、所有しているわけでもない。
 それでも、ここは自分の都市だ。自分の半分が暮らす場所だ。
 エルに見せるための舞台のように、帝都の景色が広がっているのだと思った。
 まるで我が家を案内するような、場違いな自負心が胸を満たした。

 降車ホームを抜けると、帝都の鼓動が一気に押し寄せた。
 鉄とガラスの大天蓋の下で、数えきれない人々が動き続けている。
 軍服の兵士、旅装の商人、修道服の巡礼者、荷物を担ぐ労働者。
 革靴の踵が石床を打つ乾いた音、呼び込みの声、汽笛の名残が混じり合い、
ターミナルは巨大な臓腑のようにざわめいている。
 蒸気が漂い、油と香の混じった匂いが鼻腔を満たす。
 頭上では鉄骨が蜘蛛の巣のように張り巡らされ、その隙間から夏の白光が降り注いでいた。

 エルは小柄な身体で人の波に埋もれながら、しばし足を止めた。
 視線は天蓋の奥へと伸び、群衆のざわめきさえ遠ざけるほど静かだった。
 修道服の裾が流れる人々の気配に合わせて微かに揺れ、短く切られた赤黒い髪が頭上の光を柔らかく返していた。
 外の世界を受け止めきれずに立ち尽くす巡礼者のように見えた。
 ソラは彼女の隣に立ち、その視線を追った。
 帝都の上空には、淡く輝く巨大な聖紋があった。
 空そのものに刻まれたような光の図形が、都市全体を覆う天蓋のごとく浮かび、その中心には光輪がかかっている。
 信仰の象徴。
 神の力がこの都市を見下ろしている証。

 ソラは目を細めた。
 半年に一度見る光景なのに、胸の奥がひりつく。
 あの光が、自分たちの小さな日常の外にある巨大な秩序を突きつけてくるようだった。
 エルは視線を落とし、深く息を吐いた。
 その仕草には畏れとも諦めともつかぬ影が宿っていて、ソラは言葉を失った。

 二人はターミナルの重い扉を押し開け、街へ出る。
 まぶしい白光の下、石畳の広い大通りが一直線に伸び、緋色の屋根と尖塔が林立する。
 馬車の車輪が轍を削り、鐘の音が遠くで響き、人々の声が渦を巻く。
 帝都ダルムバッハ──それはただの都市ではなく、神の象徴と共に呼吸する巨大な機構だった。

 ──退魔戦勝記念日が近い。
 駅前へ向かう通路では、すでに準備に追われる人々が慌ただしく行き交っている。行進のために磨き上げられた楽隊の楽器が輝き、商人たちは記念品や旗を並べ、子ども向けの小旗や勲章の模造品を売り始めていた。
 広場では仮設の観覧台が組み上げられ、記念演説用の壇が布で覆われている。
 市民たちはまだ来ぬ祝祭を前にざわめき、戦勝を讃える掲示が街灯ごとに掲げられていた。
 本番は数日先──だが帝都はすでに祭の胎動に包まれつつあった。

 ソラが案内したのは、帝都の中心にそびえる中央教会だった。
 連れて行かれた、というよりも、そうせざるを得なかった。
 「ダルムバッハで一番大きな教会に行かなくちゃいけない」──エルはそう言った。
 彼女の声音には、説明の余地を拒む強さがあった。

 道すがら、帝都は退魔戦勝記念日の胎動に満ちていた。通り沿いにはすでに記念市の出店が並び、焼き菓子の甘い匂いや油で揚げた料理の香りが、蒸気混じりの空気に溶けて漂ってくる。
 商人たちは帝都章入りの記念品や小旗を掲げ、子どもたちは模造勲章を胸に貼り付けて駆け回っていた。

 「見てみなよ、ほらあれ、去年より出店が多いぞ」ソラは時折足を止め、案内がてら声をかける。
 「おー」
 「……ふーん」

 エルは一応視線を向けるが、それ以上の関心は示さない。
 甘い匂いも、行き交う市民の熱気も、彼女にとっては外界の景色にすぎないようだった。
 その横顔には、目の前の祭りとは隔絶された思案の影があった。

 街路を抜け、大通りを進み、尖塔が天を突く建物の前に立つ。
 帝都の心臓部に鎮座するその教会は、石造りの壁に荘厳な聖紋を刻み、天蓋を貫く光輪の影を落としていた。
 巨大な扉の前に立ったエルは、その圧倒的な威容を前にしてもなお、何かを悟られまいとするように表情を消していた。

 彼女は終始落ち着かず、歩きながらも両手を胸の前で組み、親指をくるくると回していた。
 その細やかな動きは、無言のまま吐き出される焦燥のしるしだった。
 ソラはその仕草を視界の端に捉えながら、沈黙に耐えきれず声をかけた。

 「……ダルムバッハで、何の用があるんだ?」
 「……」
 「村で、何かあったのか?」

 答えは曖昧で、短かった。
 どの問いも彼女の外殻に弾かれ、深く届くことはなかった。
 話題はつながらず、言葉の橋はすぐに崩れ落ちる。
 自分が聞き下手なのか、それとも彼女が話すことを拒んでいるのか──ソラは分からなかった。
 ただ、その間隙を埋めるように教会の鐘が高らかに響き、二人の沈黙をさらに際立たせた。

 道中、ダルムバッハでの学校生活の話でもしてみようか──そんな考えが一瞬、頭をよぎった。
 寮の出来事、授業での失敗談、士官候補生としての日常。
 けれど、エルが興味を持って耳を傾けてくれるか、自信が持てなかった。
 それに、彼女はどこか遠くを見ていた。
 道すがらも視線は街路の石畳ではなく、もっと別の、見えない場所に向けられているようだった。
 結局、ソラは何も話せなかった。

 エルと遠出ができると知ったときの昂揚は、もうどこかに消えていた。
 並んで歩いているのに、彼女とのあいだに埋めがたい距離がある。
 気を引こうとするどんな言葉も浮かばず、胸の奥に沈んでいくばかりだ。
 帝都の賑わいは、いつもなら心を奮い立たせるはずのものだった。
 露店の喧騒、馬車の車輪が石畳を削る音、白い聖紋の影が街路に落ちる様。
 それらは、ただ胸を通り過ぎるだけの景色に変わっていた。
 人々のざわめきは音ではなく膜のように響き、ソラを外界から隔てるだけだった。

 エルはソラの横をすり抜けるように歩き、近くにいたシスターを捕まえて口を開いた。

 「──キワナグランです。継子のことで来ました。共連れです」

 その声音には抑揚がなかった。
 淡々としていて、だが異様なほど張りつめている。

 ソラは理解できなかった。
 共連れ──。
 そして、わざわざ醜名である“キワナグラン”を名乗ったこと。
 何か事務的な手続きのためなのか、それとも別の理由か。
 ただ一つだけ確かなのは、彼女が自らその名を口にするのをほとんど見たことがないという事実だった。

 エルの名は、エルヒアノス・キワナグラン・プロタゴラス。
 “プロタゴラス”は父の姓で、より安全で平凡な響きを持つ。
 だが“キワナグラン”は違う。
 何千年ものあいだ母系に連なり、血のように受け継がれてきた古い姓。
 その名は常に、ある醜聞と宿命とともに囁かれる。
 口にした瞬間、まるで暗い井戸の底から冷たい空気が吹き上がるような、周囲の空気が一段沈むのをソラは感じた。

 ソラは無言で立ち尽くした。
 その言葉が持つ重みを測ることもできず、ただその場で彼女の背を見守るしかなかった。
 エルの赤黒い髪が淡い光を反射し、その影が白い石壁に揺れていた。

 エルが声をかけたシスターは、事務的な微笑みを浮かべながら頷き、すぐさま別のシスターを呼び寄せた。
 二人はその案内に従い、奥へと進む。
 磨かれた石の床を足音が律動のように刻み、そのたびに周囲の静けさが深まっていくようだった。
 麗美な奥の部屋で彼らを迎えたのは、別のシスターだった。
 彼女は目の奥まで見透かすような視線を投げ、再び取り次ぐ。

 「──ああ、継子の祈りね。いいわ。ついていらっしゃい」

 その言葉は柔らかだったが、抗いがたいものがあった。
 まるですでに全てが決まっているかのように、拒否の余地を与えない響きだった。

 ソラは従うしかなかった。
 帝都での生活には慣れているはずだった。
 だが、この場所に足を踏み入れてからというもの、どこか胸が詰まる。
 息苦しいほどの気高さ。
 普段、神のことなど考えもしない自分が、なぜかその名を意識せずにはいられなくなる。
 奥へ進むごとに、その感覚は濃くなっていった。

 そこは、ただ大きいという言葉では足りない空間だった。
 天を衝くほどの高さを誇る白いドームが、頭上で世界そのものの天蓋のように広がっている。
 コンクリートの地肌は生々しいまでに滑らかで、その均質な白さを破るように、傘の骨を思わせる紡錘形の窓が連なり、そこから青白い日光が幾筋も差し込んでいた。
 光は冷たく澄んでいるのに、触れれば焼かれそうなほど強く、その輝きはドームを支える巨大な石柱の一本一本を際立たせ、床に長大な影を落としている。

 石柱はまるで古の巨人のように無言でそこに立ち、壁面とともに無数の文様や浮彫像で覆い尽くされていた。
 植物の蔦が絡まるかのような曲線、武器を掲げる兵士の群像、見たこともない神秘の獣の姿。
 それらは日光を浴び、白亜の輝きと深い陰影を交互に映し出し、生きているかのように空間そのものを呼吸させていた。

 「──うわ……まだこんな場所があったんだ、帝都には……」

 思わずソラの口から声が漏れた。
 帝都慣れしているはずの自分が感嘆するほどの光景。
 この都市がどれほど多層の歴史を抱えているかを、今さら思い知らされる。

 だが、エルは違った。
 その圧倒的な荘厳に目もくれず、ただ一点、真正面を見据えている。
 視線の先をたどると、ドームの真下、広間の中心に一際目立つ石碑が建てられていた。
 近寄らずとも読み取れるほど深く刻まれた文字。

 ──「エリとユルム、ここに眠る」。

 その名が何を意味するか、考えるまでもなかった。
 エリとユルム──この世界を創り、最初に星を歩んだとされる創星神の名。
 エリは地母神、ユルムは性愛神。孤児院で教え込まれた、誰もが知る神話の基礎だ。
 その文字を前にして、エルの肩越しの空気がわずかに張り詰めるのをソラは感じた。
 光に満ちたこの空間で、彼女だけがそこに縫い止められた影のように立ち尽くしているように見えた。

 ──ああ、そうか。
 ソラはようやく気づいた。
 エルはユルムの名を見ているのだ。

 まるで、刻まれたその一文字一文字が、千年を経てなお生々しい傷口のように彼女を呼び寄せているかのようだった。
 キワナグランの姓が醜名となったのは、過去の出来事が理由だ。
 性愛神ユルムをめぐる、血と暴力と背徳にまみれた歴史。
 その事件によって、キワナグランという名は帝国全土で汚名と化し、帝都でも、辺境の寒村でも、冷たい視線を受けることになった。

 エルがいま見つめているのは、ただの神の名ではない。
 その名は彼女の一族を縛りつけ、奴隷という立場にまで引きずり落とした呪詛のようなものだ。
 そして、その名を自分から名乗るという行為がどれほどの痛みを伴うものか、ソラはようやく理解した。

 エルは動かない。
 祈るでもなく、跪くでもなく、ただ立ち尽くしている。
 まるで何百年もそこに立っていた彫像のように、静かで、脆く、触れれば崩れてしまいそうだった。
 その横顔を見ていると、ソラの胸にも重いものが沈殿していく。
 言葉をかけようとしても、何を言えばいいか分からない。
 声をかけるということが、今の彼女を壊してしまうことのように思えて、ただその場に立ち尽くすしかなかった。

 「エル……平気?」

 ──声は届いた。けれど、その先の動作は宙で止まった。ほんの数サンチ。肩に添えるつもりだった手が、空気を撫でるだけで終わる。自分でも驚くほどに、臆病な仕草だった。
 胸の奥で、別の声がした──それは彼女を気遣う手ではなく、触れたいと願う手になる、と。指先に宿った生々しい情動が、ただの慰めの所作を汚してしまう。だから止めた。止めるしかなかった。
 結果、エルには何も伝わらない。彼女の肩はただ、無防備なままそこにある。寄り添いたいと思っていたのに、その一瞬の逡巡がすべてを台無しにした。情けなさがじわりと頬を熱くする。──きっと彼女は、こちらの迷いを知らない。けれど、もし知っていたとしても、何も言わないだろう。わずかな距離が、永遠の隔たりのように思えた。

 「──大丈夫」

 ──エルの声は、まるで無駄な感情の起伏をそぎ落とした刃物のように淡々としていた。だが、その冷ややかな調子の奥に、彼女が自分の内側を固く閉ざし、揺るがぬものとして祈りの場に身を据えていることが伝わってくる。短く切りそろえた赤黒い髪が首の動きに合わせて微かに揺れ、その表情には恐れも安堵も浮かばず、ただ「必要だからそうする」という諦観にも似た決意だけが刻まれているように見えた。ソラはその横顔を見つめながら、空中で止まった自分の手の居場所を失い、結局は降ろすことしかできなかった。

 ──「さあ、では私の後ろにひざまずいてください。とりあえずあなたも一緒にね」

 シスターの言葉は、儀式の段取りを粛々と告げるものにすぎなかったが、ソラの耳にはそれが一種の救いのように響いた。場の緊張を分かち合うというよりも、ただ傍観者であればいいという立場が与えられたことが、心の奥底に安堵をもたらす。彼女の言う「とりあえず」という一言は、門外漢であるソラがこの場で果たすべき役割の軽さを示すと同時に、自分が踏み込めない領域を明確に示す境界線でもあった。

 ──「では私が祈りを捧げます。その祈りを頭の中で復唱して、結句だけ私のあとに続けて唱えてくださいね」

 そう続けて告げたシスターは、裾を揺らし、エルの隣に静かにひざまずいた。白い修道服の布が石床に擦れ、乾いた音を立てる。光が高窓から差し込み、彼女の背に淡い輪郭を描く。それは神の存在を背負う者としての姿だった。ソラもその背に倣うようにひざを折り、石床の冷たさを両足で受け止めた。だが、その冷たさ以上に、自分がいま触れようとしているのがエルの過去と宿命という深い淵であることを、言葉にならない直感として理解した。

 この場の空気は、都市の雑踏とも学校の教練場とも違う。呼吸のひとつさえ慎重にしなければ、目の前の光景を壊してしまうかのような緊張があった。エルの背中がわずかに動き、その細い肩甲骨の輪郭が布越しに見えた瞬間、ソラは、触れられなかった肩のぬくもりを再び強烈に意識し、自分がその距離を越えられないことを痛感した。

 シスターの祈りの言葉が大空間に響き始める。
 一語一句が高い天井に吸い込まれ、石柱の隙間を渡って、やがて静けさと混じり合う。
 ソラは言葉を頭の中で追うだけで精一杯だった。口の中で形を作りながら、声には出さない。エルの背はわずかに前に傾き、組んだ指先が白くなるほど力が入っている。

 「全能にして我らが祖たる主よ。
ここにおわす我らが主、エリとユルムよ。分けて、主、ユルムよ。
ここにある、あなたの罰を負う者、
キワナグランの請願に耳をお寄せください──」

 祈りの残響がドームの奥で輪を描いて消えていく。
 それが終わるたびに、沈黙の重みがさらに増していくようだった。

 「──ここにあるはこれより先、あなたの命に従い生を全うする者です。
これにあたりどうか一つ、お聞き届けください。
ここにあるはあなたの罰を負い、これまで贖罪のために生きた者です。
そして生涯、あなたの罰を負う者です。
しかしどうか、これを来たる赤子にも与え給うことはお赦しください。
あなたの慈悲によって、これをお赦しください。
あなたの聖なる戒めを守り、御心に適うよう努め続けます。
どうか来たる赤子にあなたの道をお示しください。
──祝福をもち、代行せよ。ノーチス」

 「「祝福をもち、代行せよ。ノーチス」」

 ──エルとソラの声が、結句だけを発し、反響して返ってくる。……やがて完全な静寂が訪れた。

 聞いたことのない祈りだった。
 それも、教会で生まれ育った孤児である自分でさえ耳にしたことのない言葉。神学の教えの中で遠ざけられ、名を口にすることすら避けられてきた一族のための祈り。──そんなものが存在するのかと、まず驚かされた。けれど、耳がその響きを覚える前に、胸が先に理解してしまう。ああ、そうか。これはエルのための祈りであり、エルの子のための祈りだ。

 通りで、エルがこの遠出の目的を言い淀むわけだ。
 口にすれば、それは自らの血が負う呪いを宣言することになる。キワナグランの血を継ぐ者として生まれるとはどういうことなのか──それを自分に説明するというのは、きっと喉を裂かれるような苦しみだろうと想像できた。生まれながらに背負わされた宿命を、他人の目の前で改めて言葉にする痛み。自分には想像しきれない重さが、エルの肩にはいつも載っていたのだ。

 だからこそ、彼女は自分を連れてきたのだろうか。
 ソラはふとそう思った。この祈りを見届けても、きっと自分はエルを悪く思わない。そんな確信がある。いや、彼女もそれを分かっていたのかもしれない。共連れ──ただの供ではなく、彼女の傷に触れても、拒絶も否定もしない者として、ここにいる。そういう存在として、自分を選んでくれたのだろう。

 それが正しいのかは分からない。だが、エルの小さな背中を見つめながら、そう思わずにはいられなかった。

 ──エルは俺を信じてくれているんだ。
 その思いが胸に差し込んだとき、内側からじんわりと温かいものが広がる。まるで、これまで遠くにあったはずの彼女の心が、不意に自分の掌のすぐそばに置かれたかのような錯覚。いや、錯覚であってもいい。エルが自分をここまで必要としてくれた、その事実だけで、十分に価値があると思えた。

 ──結婚を考えてもいい。
 あの言葉が耳の奥で何度もリフレインする。考えてもいい──それは受け入れるという意味なのか、それともただの猶予なのか。希望と不安の狭間で、言葉の輪郭はぼやけていく。もし、あの一言が自分を試すための釣り糸なら。もし、彼女がまだ結論を出していないのだとしたら。そう思うと、すがるような気持ちでそこに意味を見出そうとする自分が、ひどく浅ましく思えた。

 それでも、やはり嬉しかった。結婚という言葉を、彼女が自分との間で口にしたという事実が。
 早計だ──そうわかっていても、胸の奥の希望は抑えがたく、脈打つように広がっていく。

 エルは跪いたまま、目線だけで石碑を射抜くように見つめていた。手は組まれているが、指先は小さく震え、互いの爪が白く食い込むほどに強く押し合わされている。唇は閉ざされているのに、喉元がわずかに上下して、抑えた呼吸が胸の奥で波打っているのが見て取れる。旅の始まりからここに至るまで、彼女がすべてを知っていたのだと、その硬い横顔が語っている。だが知っているからこそ、なおもここに立たねばならないという諦念が、その姿勢の端々にこびりついている。視線は逸らさない。けれどまぶたは半分落ち、光を遮る影がまつげの下に溜まる。修道服の裾がわずかに揺れ、そこに仕込まれた足輪の存在を思い起こさせる。逃げ場のない無慈悲な制度に縫いとめられた少女が、せめてもの意志のかけらとして「誰と共にいるか」を選び取った──その痕跡が、震える指先と張り詰めたうなじに宿っていた。

 「お祈りはこれで終わりです。次は──あそこにいるシスターについていってください」

 響き渡ったその声には、儀式の終わりを告げるというよりも、決められた道の先へ送り出すための事務的な冷ややかさがあった。ソラはふと、祈りを導いたこのシスターがこの場での役割だけを担う存在なのだと気づく。ドームの中心にあっても微動だにせず、まるで空間の一部であるかのような立ち居振る舞い。祈りのみを司り、人の営みを神の前に置く媒介者。その佇まいは威厳というより、すでに人ではないものに近かった。見た目の年齢は四十を超えているだろうか。だが白銀の縁取りの施されたヴェールが示すとおり、位の高いシスターであることは素人のソラにもわかった。

 ソラとエルは、再び足音をそろえてドームの端へ向かう。沈黙を破るものは、二人の靴底が冷たい石床を踏むたびに生まれる硬質な反響音だけ。広大な空間は、歩くたびにその小さな音を大きく増幅し、二人を試されるような心地にさせる。入口近くには、年若いシスターが一人、背筋を伸ばして立っていた。彼女は二人が近づくと無言で頭を垂れ、手元の書類を取り出してエルに手渡す。その束には印章がいくつも押され、赤と黒のインクが層を成している。誰が何を確認したのかが、一目でわかるように。

 「こちらへどうぞ」

 若いシスターは簡潔にそう告げ、白い袖を滑らかに動かして道を示す。その仕草は、言葉よりもなお雄弁に、この先へ進むことが当然であると告げていた。視線だけで二人を促し、足音すら感じさせぬほどに音もなく歩き出す。彼女の歩みは不思議なほど均一で、迷うことも、立ち止まることも許さないかのような一定のリズムを刻んでいた。ソラはその背を追いながら、隣のエルが一言も発さずに書類を抱えて前を見据えているのを横目で見る。

 エルは歩きながら、紙束をそっと開き、並ぶ文字を視線でなぞってしばらく確認すると、また慎重に折り畳み、両手の人差し指と親指で挟み持った。その仕草には、書類の重みがただの紙のそれではないことを告げる沈黙の響きがあった。足取りはぎこちなく、しかし止まることはなく、背筋をぴんと張って進む。その小柄な背に、張り詰めた緊張が目に見えるように宿っているのをソラは感じた。

 ──どうしたんだ? “次は”ってことは、まだ何かあるのか……。

 心の中で問いかけながら、ソラは無意識に息を殺す。大聖堂の奥へと続く回廊は、まるで現実の時間が切り離されてしまったかのように冷ややかで、外界の喧騒も夏の熱気も届かない。石床に映るステンドグラスの淡い光が足元を青や赤に染め、ひとつひとつの歩みが異なる世界を踏みしめている錯覚を与えた。

 エルの小さな手は、紙を落とすまいと強く握りしめている。指先がわずかに白くなるほどの力。彼女の視線は一度も逸れず、ただまっすぐに前方を見据えていた。その横顔には言葉にならない決意が影を落とし、長い沈黙が彼女を輪郭ごと覆っているようだった。

 ──この先に、何が待っているのか。

 そう思わせるに十分な、重く張り詰めた空気がそこにはあった。歩みを進めるごとに、その答えに近づいてしまうという不安が、足元から這い上がってくる。

 いくつかの中庭を横切り、庭に面した回廊を進む。広大な教会敷地のどこに位置するのかもわからない、奥まった一角へと連れていかれる。回廊の途中で聞こえていた祭壇の祈りの声や鐘の余韻も遠のき、ただ草の匂いと石畳の冷えた空気が残る場所。そこに建つ長屋風の舎屋は、表の壮麗さとは別の顔を持ち、訪れる者を隔絶するような静謐に包まれていた。

 通されたのはその一室──窓際にダブルベッドが備えられた、装飾の少ない個室。白い壁と無機質な床板が目立ち、生活感というものが徹底的に排除されたような、ただ「滞在」を目的にした空間だった。僅かに開かれた窓から、庭の葉が揺れる音と、遠くの聖堂の鳩の羽音が聞こえる。

 「では、終わりましたらお声がけください。五時間が経ちましたらこちらからまたお伺いします。──よしなに」

 案内してきたシスターは、そう簡潔に告げると、深く頭を下げ、音も立てずに扉を閉じて立ち去った。残されたのは、エルとソラ、二人きり。

 「え……。これってなんなの? いま五時間って言ってたけど……」

 口をついて出た問いに、エルは無言のまま、両手で大事そうに抱えていた書類をソラへ差し出す。その手は固く強張り、差し出す指先まで小さく震えていた。

 受け取ると、書類の端がじっとりと手汗で湿っているのがわかる。その湿り気は、エルがここに至るまでどれほどの緊張を抱えていたかを、紙よりも雄弁に物語っていた。

 「──見ていいの?」

 問いかけると、エルは一度だけ小さく瞬きをし、答えの代わりに目を伏せた。うなずきも拒絶もなく、ただ沈黙が返ってくる。ソラはそれを「肯定」と受け取りながらも、胸の奥に奇妙な重さが落ちるのを感じた。

 ──五時間。ここで自分たちに何が求められるのか。

 部屋の空気が、ゆっくりと現実感を失い、圧し掛かるような時間の存在だけが残る。
 その内容はこうだった。

 ──エルヒアノス・キワナグラン・プロタゴラスは、卑俗ではあるものの皇族の一柱、キワナグラン家の血筋にあり、また二十五歳でその天命は尽きる定めにあるため、十六歳を過ぎたいま、子を設けなければならない。
 以降、これを継子創生と呼ぶ。
 右の者に共連れとしてこの書を手渡された者、受領者は、これをもって右の者に継子創生のための相手として選ばれたことを意味し、これに応えなければならない。
 受領者はこの要請に即応するか、これを延期するか、拒否することができる。
 即応する場合、受領者は 「継子創生承諾書」 に記名の上、神印を押すことをもって、右の者に対し、将来に渡り早期の継子創生の努力義務を負う。
 即応せずに継子創生を延期する場合、受領者は 「継子創生誓約書」 に記名の上、神印を押すことをもって、右の者の天命が尽きるまでに継子創生を実現する努力義務を負う。
 拒否する場合は、以降、これについて何らの義務も課されない。
 ただしその場合、右の者には神聖代行師団による継子創生の手続きが施され、これを実現するを試みられることに留意されること。──

 国印まで、押されていた。
 ──脳が一瞬、意味を拒絶した。まるで現実の輪郭が強制的に塗り替えられたような異物感が、紙の手触りから伝わってくる。国印。つまりこれは単なる通知ではなく、帝国そのものの意志。否応なく従わせるための命令文書だ。

 理解はしていた。いや、してしまった。
 エルは──皇族として、子を産まねばならない。そしてそのための相手として、ソラが選ばれた。
 その選択を拒むこともできる。だが拒否すれば、記されている通り、“神聖代行師団による継子創生の手続きが施され、これを実現する”──。

 “手続き”とは、いったい何だ。
 事務的な響きに包まれているが、その実、どれほど冷酷な現実が待っているのか。ソラには想像もつかない。ただ一つだけ分かる。エルが、自分以外の誰かによって、機械的に、儀式の一部として、子を産まされるということ。それは現実としてそこにある。

 神聖代行師団──。
 名を知っている。だが詳しい実態は知らない。修道会を統括し、軍事・政治に介入し、時には皇帝の命を代行する。臣民の間では「影の帝国」とさえ呼ばれる、得体の知れない巨大な存在。その特務は法の外にすら置かれ、噂だけが独り歩きする。冷ややかな神聖の仮面の下で、何が行われているのかを誰も語らない。

 “手続き”とは──。
 その言葉は無機質な響きで、だからこそ恐ろしい。愛も情もなく、命が扱われるということ。
 書類を持つ指先が汗ばみ、紙がわずかに波打つ。心臓が一拍ごとに重く胸を叩いた。

 エルは、このすべてを知っていて、ここに来たのか。
 その小さな背中にどれほどの決意と諦念が積み重なっているのか。想像すればするほど、胸の奥が締めつけられる。

 「え、これ……俺はどうすれば……」

 思わず、口を突いて出た。
 喉が先に動き、理性が追いつく前に空気が言葉になってしまったような、そんな感覚だった。

 ──その瞬間、胸の奥が凍りつく。
 これは、言ってはならなかった。そう思った。
 あとから思い返せばなおさらだ。
 いままで、どれほどの熱量を込めてエルに結婚を申し込み続けてきたか。その想いを言葉にし、何度も伝えてきたか。それなのに、この場で「どうしたらいいかわからない」などと口走ることが、どれほど軽く、どれほど裏切りに似て響くだろうか。

 ソラが口にしたその一言は、エルの心を深く傷つけたかもしれない。
 これまでのソラの本気度が、まるで演技や気まぐれであったかのように疑われても仕方がない。
 あの時、エルは──自分のことを、信じてくれていたのだ。皇族としての宿命という重荷を背負い、その上でソラを選び、ここに連れてきた。唯一の共連れとして、自らの未来に関わる重大な決断を託した。

 そして、その信頼を、今この一瞬の言葉で踏みにじったのだ。
 ──まるで、自分が口先だけの人間であることを、自ら証明するかのように。

 胸の奥に、言いようのない自己嫌悪が沈殿していく。吐き気のような後悔が、体の奥で膨張していた。

 「──私に“子どもをくれたら”結婚してあげる……かも」

 うつむきがちに、部屋の隅を見ながら吐き出された言葉は、囁きというより、自分の中に溜め込んだものがひとりでに零れ落ちたようだった。声量は小さく、けれど明瞭に響く。自分自身を鼓舞するような響きもなく、かといって完全な諦めとも違う。重たく均された感情の層を透かして、言葉だけが淡々と抜け出てきた。

 歩み寄るその足取りは、迷いを抱えているはずなのに、不思議と定まっていた。迷っていても、立ち止まることは許されないと知っている者の足取りだった。ベッドの前に立ち、視線をそこへ落とす。何かを考えているのではなく、何も考えないようにしているようにも見える。スカートの裾を腿に撫でつけるその仕草は、自分の存在をそこに押し留めるための確認のようで、あるいは自身を落ち着かせるための小さな儀式のようだった。

 腰を下ろすと、両手を硬く握り合わせる。指は絡むというより、強く押し当てられ、白い指先がうっすらと紅潮している。その組まれた小さな手が、彼女の心に巣食う緊張と、諦念と、なお消えないささやかな反抗の意志をすべて代弁していた。声にはならない叫びがそこに宿っているようで、ソラには触れられない、触れてはいけない領域を感じさせる。

 ──これは決して、軽い冗談ではない。
 義務として課された言葉を、少女が少女のままに背負うための、精一杯の覚悟のかたちだった。

 そこで、ソラの頭の中でこれまでのエルの様子のすべてが、断片からひとつの像として結びついた。
 ──「“共連れ”になってくれたら、考えてあげてもいいよ」と言った、あのときの曖昧な微笑み。
 帝都への遠出の理由を、最後まで言い淀んでいたこと。
 ここまでの道のりで、馬車でも汽車でも、まるで心だけが遠いところにあるように上の空でいたこと。
 そして、修道服の裾を整えるときにふと漏れた深い呼吸や、親指をくるくると回していた落ち着かない指先──。

 すべてが一本の線になった。
 エルは初めから、“その”つもりでいたのだ。
 この五時間の部屋も、その前に捧げた祈りも、すべてがこの瞬間のためにあったのだと理解してしまったとき、胸の奥に不意に重たいものが沈む。

 ──じゃあ、俺はそれに応えればいいのか……?

 その問いは、自分に向けられたものだった。
 返事をする相手は誰でもないのに、背筋がひやりとした。
 エルのために選ばれたという誇らしさと、抗いがたい圧力と、情動が渦巻いて足元がふらつきそうになる。
 目の前で、両手を組んでじっと座っている少女がいる。
 彼女がすべてを受け入れると決めてここにいるのなら──自分は、どうする。

 ベッドに腰掛けるエルは、ソラから大きく視線を外しているのに、その細い身体の輪郭からは、この部屋の時間そのものを支配するような気配がにじんでいた。伏せられたまつ毛の下で、わずかに揺れる瞳の影が床を見つめ、握られた両手の指は何度も互いを擦り合わせ、乾いた摩擦音を立てる。呼吸は浅く、一定の間隔で小さく胸元を上下させているが、どこか引き絞ったような苦みを帯びていた。──待っている。口に出さずともそう告げる雰囲気が、この狭い空間を満たしていた。

 その沈黙に導かれるように、ソラはエルの右隣に腰を下ろした。視線を合わせず、できるだけ自然な仕草を装いながら、手元の書類をサイドテーブルへとそっと置く。硬い紙が木製の天板に当たる小さな音がやけに大きく響き、自分の存在をこの部屋に刻み込むようで胸がざわついた。

 何秒か、何十秒か、それとももっと長い時間か──時計がないのに、その無音の針が肌に刺さるように、息が詰まる時間が過ぎていく。隣にいる少女が、何を考え、何を覚悟しているのか。次に自分が何をすべきか、何を言うべきか。絡みつくような思考が頭の中を駆け巡り、視界の隅でエルの膝がかすかに震えるのが見えたとき、ばふ、と唐突に、エルが腰を倒して仰向けになった。修道服の裾がわずかに広がり、ベッドの白に溶け込む。
 帝都までの八時間、硬い座席と絶え間ない揺れに晒された旅路は、まだ幼さの残る身体から力を奪い尽くしていたのだろう。全身が脱力し、もはやベッドに沈み込むただの人形のようにも見えた。
 天井を見上げるその瞳は何も映さないかのように遠く、けれども唇だけが、わずかな動きで命じた。

 「早く」

 囁きとも命令ともつかないその一言が、部屋の重さを決定的にした。

 エルは目を閉じていた。睫毛の影が頬に落ち、長い呼吸のたびに微かに震える。両腕は身体の横に放り出され、指先は力を失ったかのように開かれている。その姿は拒絶ではなく、すべてを委ねるという静かな意思の表明のようにも見えた。

 ぴったりとした墨色の修道服は、白いシーツの上で異様なまでに鮮明な輪郭を描き出していた。淡く沈む布地が太ももの丸みを伝え、鼠径部へと沈む谷を自然な陰影で縁取る。無防備に横たわる彼女の中心を、その布地はただ覆うだけで、隠そうという意図さえ失っているように思えた。

 胸元から腹部にかけて、呼吸に合わせてわずかに上下する柔らかな起伏。胸のふくらみの下、細く引き締まった胴が深く息を飲み、また吐き出している。整ってはいるが、そのリズムはどこか速い。呼吸の速さが、彼女がただ静かに眠っているのではなく、この場において確かに覚醒していることを示していた。

 ──緊張しているのだろうか。
 そう思った瞬間、ソラの胸に重く沈む何かがあった。これまで幾度も見てきたはずの彼女の横顔が、今だけはまるで知らない誰かのものに思えた。

 ソラが隣に腰掛けたことで、この部屋の空気に静かで残酷な合意が成立していた。互いに言葉は交わしていない。けれど、その沈黙こそがすべてを告げていた。──“する”。それがここでの役割であり、結末だ。

 エルはとうの昔に覚悟を決めていたのだろう。閉じられたまぶたの奥に、拒絶も恐怖もない。あるのは受容。これから訪れるものを知っていて、それでも逃げずにいるという、諦念と決意が同居した静謐な表情だった。

 あとはソラが行動するだけだった。目を閉じて待つ彼女が、ほんの一言だけ放った──“早く”。その二文字が、開始の合図として重くのしかかる。始めろ、ということだろう。

 だが、何から始めればいい? 頭が真っ白になる。キスをしていいのか? それとも身体に触れるべきか? もし触れるなら、どこから触ればいい? 肩か、手か、それとも──。考えれば考えるほど答えは遠のき、緊張は膨らむばかりだった。

 想像では、だいたいこういうときはキスから始まるものだと思っていた。けれど、それは恋人同士がすることだ。ソラとエルは、まだそういう関係ではない。だからこそ、この行為がどういう意味を持つのかを決めかねている自分がいる。

 目の前のエルは、ただ待っている。修道服の黒と白のコントラストが、彼女をこの世の人間でないように見せる。意思のない人形のように静かなその姿が、ソラの胸を痛みとも焦燥ともつかない感情で満たしていく。

 ──これは、儀式なのか。それとも、愛の始まりなのか。
 答えはまだ、どちらにも転がっていなかった。

 だからソラは、最も無難で、最も自分を保てる選択をした。そっと、エルの右の手のひらに指先を触れさせる。ぴくり、と彼女の指が反応した。触れた瞬間、しっとりとした温度と柔らかさが伝わり、手の小ささにあらためて気づく。親指の付け根に触れると、そこにほんのわずかの弾力があり、痩せた手首を包み込むように握ると、骨の細さが掌に痛いほどわかる。

 修道服越しに前腕を撫で、肘から二の腕へと移る。布の下の身体の細さと、その奥にある筋肉の確かさが指先を通じて感じられた。肩に触れたとき、手をどこに持っていくべきか迷う。そこでソラは視線を上げた。

 エルの顔がある。

 近い。こんなに近くでエルの顔を見たのは初めてだった。触れていた手の感触や呼吸音すら忘れ、深緑の瞳に捕らえられる。光を湛えながらもどこか影を帯びるその瞳は、ガラス越しに底の見えない水面を覗き込むような深さで、ただの美しさ以上のものを宿しているようだった。

 ──これが、エル。

 呆然とした。意識が攫われそうになったその刹那、理性が蘇る。自分がいま何をしているのか、何をしようとしているのかが冷たく戻ってきて、ソラはわずかに息を飲んだ。

 ──エルがいま立たされている状況は、二十五歳までの残された九年のうちに、否応なく子どもを産まねばならないというものだった。それもただ「いつか」ではなく、なるべく早く、という苛烈な命題として。あまりにも冷徹な制度の下で、彼女の生は目的のための手段へと矮小化され、未来のすべてが予定調和のように固定されてしまっている。おそらく唯一と呼べる選択肢は、その過程で「誰との子を持つか」という、ささやかでありながら決定的な一点──自らがほんのわずかに望みうる相手を選べるかどうか、その裁量だけだろう。

 それは果たして自由と呼べるのか。そんな形で与えられる余地に、意味があるのか。自分の身体も、心も、これから生まれる命さえも、自らの手で決定できないという現実が、どれほど残酷で、どれほど人を深い孤独に沈めるか。

 ──こんなことがあっていいのか。

 思考の奥底で誰かが冷たい声で呟き、その一方で、目の前のエルがただ静かに息をしているという事実が、ソラの胸を鋭く刺した。生きた人間としての彼女が、この現実のただ中に立たされているということが、痛いほどに実感を伴って迫ってきた。

 ──いや、書類にもある通り、確かにエルはキワナグランだ。誰もが畏れと偏見をもって囁く、あの一族の末裔。その証として、彼女の左半身には黒く精緻な幾何菱文──まるでナイフで皮膚に刻まれたかのような鋭い意匠の「ユルムの烙印」が広がっている。孤児院時代、まだ何も知らぬ子どもの無遠慮さで、灌水浴の際にそれを覗いて見てしまった記憶がある。あのときの衝撃──肉体という柔らかな器に、異様なまでの規律と禁忌の線が縫い止められている光景──は今も瞼の裏に焼き付いている。

 だが、それも理由の一端に過ぎない。いや、それは表層だ。本質ではない。

 ──俺は、エルにこんな選ばれ方をしていいのか。

 ソラの胸に広がるのは、名誉でも喜びでもない。まるで知らぬまま深い水底へ引きずり込まれるような、抗えない力への畏怖と、自分が彼女の最後の拠り所として呼ばれたのだという重さ。名と血と烙印によって縛られた彼女が、それでも選んだ「一つだけの裁量」のために自分を呼んだのだとしたら──そこに自分は何を返せるのか。その答えが出せず、ただ問いだけが胸の内で膨らんでいく。

 一見すれば、これは歓喜すべき出来事だと錯覚してしまう。エルに残されたわずかな自由意志──「自分の望みうる相手との子を持つかどうか」という、たった一つの選択。その果てに選ばれたのが、自分なのだから。だが、胸に膨らむ熱は、祝福というより苦い澱のようだった。

 エルはなぜ、自分を選んだのだろう。

 ──俺がよかったからだ、と、そう思いたい。彼女の心が、自分に少しでも向いていたのだと信じたい。だが、現実はきっと違う。そこに愛情や憧れなどという甘やかな動機はない。ただ、他の誰かよりはまし──その冷徹な比較の結果として、自分が残っただけなのだろう。

 そう考えた瞬間、喉の奥がひどく乾いた。名誉でも好意でもない、自分という存在がただ「条件の一つ」として選ばれたという事実。その重さと虚しさが同時に胸を圧迫する。エルが抱えている諦念と反抗のわずかな残響の上で、自分はただ「ましな駒」として置かれている。そう思うと、得体の知れない孤独が、彼女ではなく自分の側から這い上がってくるのを感じた。

 ソラは、自分がずっと夢想してきた関係が、こんなにも無機質な制度と、エルの過酷な身の上に寄りかかる形で訪れるとは思ってもみなかった。彼女を愛したいと願ってきたのは確かだが、それはこんな強制された儀礼の中で成されるものではなかったはずだ。だが、思考はすぐに別の直感へと塗り替えられる──「エルを守りたい」。その一念が、胸の奥で鋭い閃光となって走った。

 神聖代行師団の“手続き”とは、具体的にどんなものか──ソラには想像すらつかない。だが、そこに一片の人間らしい情緒や優しさが介在しないであろうことだけは分かる。官製の機構が、名も顔も知らぬ誰かが、淡々と執行する“処理”。短い時間であろうと、その間にエルの身と尊厳が他者の手に委ねられる。それが意味する冷酷さは、言葉を超えて心を抉った。

 ──考えただけで、身の毛が逆立つ。怒りと恐怖と嫌悪が、血液を沸騰させるように混ざり合い、形のない暴風となって内側で渦を巻く。耐えがたい。受け入れられない。この想像だけで、すでに心の奥底に爪を立てられたような痛みが走る。守らなければならない。誰であれ、エルを“そういう目”に遭わせるわけにはいかない──たとえそのために、自分のすべてを投げ出すことになったとしても。

 いまこの瞬間、ソラのすぐそばに横たわるエルの存在は、彼の全身に重くのしかかる現実だった。触れれば壊れてしまいそうな、しかし決して誰にも渡してはならないもの。──その感覚が、喉の奥で硬い塊のようにせり上がってくる。あの書類に列挙されていた選択肢──“即応”、“延期”、“拒否”。三つの文字列が脳裏に浮かび、ひとつひとつが胸を圧迫するように重く響く。そして、答えは瞬時に出ていた。“拒否”という選択肢は存在しない。エルを、あの誰とも知れぬ冷たい機構の手に委ねるなど、考えただけで正気を削がれる。

 それは愛かもしれないし、独占欲かもしれない。そんな分類に何の意味があるというのか。いまこの瞬間の彼には、どちらであろうと関係がなかった。ただひとつ確かなのは──“拒否”という行為は、エルに望まぬ形で他者と交わることを強いることになるという事実だ。その現実を前に、理屈や倫理が入り込む余地はなかった。自分の中で沸き立つどうしようもない感情──守りたい、奪われたくない、汚されたくない──そのすべてがひとつの結論へと収束していく。彼女を守ること。それだけが、ソラに残された唯一の選択であり、唯一の救いだった。

 しかし、エルの瞳を見た瞬間、ソラの胸に冷たい刃が落とされたような思いが走った。あの深緑の瞳の奥にあるのは、意志ではなく、諦めと痛みに染まった強い決意の色──それは自ら選び取ったというよりも、選ばされ続けた者だけが持つ色だった。ここで“即応”を選ぶことが、自分に何を意味するのかを理解する。形の上ではエルの意志を尊重するように見えても、実際には彼女をこの苦境に押し込んでいる制度と同じ側に回ることだ。あの書類の文言の延長線上に、自分という加害の影が伸びる。エルが追い込まれて選んだのが自分であるとしたら、その事実の上に胡坐をかいていいはずがない。

 彼女を守りたいと願ってここにいるのに、結局は彼女を追い詰める側に加わってしまうのか──その矛盾がソラを蝕む。こんなやり方で彼女の隣に立つのなら、それは救いでも選択でもなく、ただの共犯だ。エルが置かれた苦境を思えば思うほど、ソラは“即応”の二文字がもたらす重さを振り払うことができなかった。そうだ、あれは彼女を守るための選択肢ではない。彼女をさらに深い檻へ閉じ込める鎖にしかならない。エルを想えば、到底そのようなことはできなかった。

 ──少なくともいま、俺がするべき選択は“延期”だ。
 それは自分のためではない。いまこの瞬間に答えを出せば、エルをさらに追い詰めることになると、嫌でも理解してしまったからだ。けれど、どう伝えればいい? 触れるだけで精一杯なこの状況で、どんな言葉なら彼女を壊さずに済む? 呼吸のたびに胸が軋み、鼓動の音が耳の奥で爆ぜる。

 仰向けに横たわるエルの上に、俺は覆いかぶさっていた。ほんのわずかな距離で、彼女の顔がある。白いシーツに墨色の修道服が映え、長い睫毛が震えている。その深緑の瞳が、今度ははっきりと俺を捉え、まるで逃がすまいとするかのように見つめ返してくる。瞳孔の奥で微かに光が揺れ、決意と恐怖、諦念と祈りが複雑に絡み合っているのがわかった。

 小さな両手はシーツの上で組まれ、爪が白くなるほど強く握られていた。自分に言い聞かせるように、受け入れるしかないと覚悟を固めているのだろう。だからこそ、俺の口にする一言が、その覚悟を砕くことにもなる。そう思えば、容易な言葉など吐けるはずがなかった。

 ──エルの瞳が揺れている。
 その揺らぎに、俺は完全に捕らわれていた。呼吸の熱が触れ合い、互いのまつ毛がかすかに触れそうな距離。こんなにも近いのに、彼女がどれだけ遠くで孤独を背負ってきたのかがわかってしまう。いまだけは、その孤独を、俺の存在で覆い尽くしてやりたいと思った。

■ソラとの遠出

 ──どうか来たる赤子にあなたの道をお示しください。
 ──祝福をもち、代行せよ。ノーチス。
 「祝福をもち、代行せよ。ノーチス」

 唇が勝手に動いて、声が空気を震わせる。祈りの結句はそういうものだ。
 エルはこの結句が大嫌いだった。

 それは義務の言葉だ。祝福を、代行せよ──。代わりに、誰かの意志を生きよと告げる言葉。
 だからいつも、心の奥で小さく付け加える。
 ──神聖力、私にはもう使えませんが。

 そう思うだけで、少しだけ胸が軽くなった。だがそれも一瞬のことだ。教会の石造りの静けさは、祈りを終えた自分をすぐさま現実へと引き戻す。
 見上げれば、ドームの高みに注ぐ光が冷たく降り注ぎ、自分の影が長く床に伸びている。どれだけ祈ろうが、変わらないものがある。その影の長さは、自分の運命そのもののように思えた。

 祝福。それは神、エリとユルムが人間に与えた力、神聖力。
 人はそれを糧に神術を行使し、リリーと呼ばれる者たちはさらにその先、シフタと呼ばれる異能を振るう。
 神聖ヴェルメルデ帝国──その本国において、リリーの存在は特権と同義であり、帝都ではシフタを使えぬ者の方が珍しい。

 けれど、私はリリーでありながら、シフタも神術さえも使うことができない。
 それは、足首にはめられた二重の銀の足輪が、神聖力をすべて吸い上げてしまうからだ。
 冷たい金属の輪は、あの日からずっと足首にある。
 奴隷に落とされた証として、帝都の工房で刻まれ、嵌められたもの。
 皮膚を締めつけ、少し動けばかすかな擦過音を立てて存在を主張する。
 それは屈辱の象徴であり、同時に神聖力を一滴残らず吸い上げる拘束具だった。
 リリーとして生まれながら、祝福の力はすべて奪われ、神術もシフタも振るえない──それが、今の私だ。
 神術の光も、シフタの奔流も、かつては私の一部だった。
 指先ひとつで空を裂き、地脈を震わせ、誰も届かぬ領域で自在に祝福を操った──それが、かつての私だ。
 だが今は、触れる前にすべてが奪われていく。
 冷たい金属の足輪が祝福を吸い上げ、光も奔流も、ただの記憶へと変えてしまった。
 天才と呼ばれた日々は終わり、残ったのは何も生み出せぬ器だけ。
 祝福の力を持ちながら、それを花開かせることすら許されない惨めさ──それがどれほどのものか、きっと彼らにはわからないだろう。

 ──でも、これも罰として受け入れます。
 母の代以前、はるか昔から続くこの烙印。キワナグランの名が背負ってきたものを、私も負う。それが私の役割だ。
 足輪の冷たさを忘れることはない。だがそれも、祈りの言葉と同じように、自分に課せられた宿命の一部だと思えばいい。

 ──八歳まで。奴隷という呼び名が私に貼りつく前、まだ私がただの子どもで、けれど天才と呼ばれていた頃。
 シフタは呼吸と同じだった。祝福の光を纏うのに理由なんていらなかった。力を解き放つたび、周囲の大人たちが目を見張り、父は大きな手で私の頭をわしわしと撫でて笑った。才能がある──そう言われるたび、胸が誇らしさでいっぱいになった。

 けれど、その“才能”を、私は別のものに使った。父を殺したあいつらが悪い。目には目を。血には血を。八歳の私の世界は、それだけでできていた。涙と怒りだけが燃料で、理屈も分別もなかった。

 ──そして私は罪を犯した。
 玄関はもはや扉ではなかった。叩き壊された材木と、圧縮した空気が解き放たれた瞬間に生じた風圧が、広間の柱を軋ませながら吹き抜けていった。腐敗貴族の屋敷は息を詰めたように沈黙し、その沈黙を裂くように足音が、床板に乾いた音を残す。
 廊下の奥で顔を上げた護衛がいた。シフタでつくり出した真空が一瞬で彼らの呼吸を奪い、光と風が交差する。肉の裂ける音も、甲冑が床に落ちる鈍い音も、耳の奥では遠くにあるように響いた。

 空気は鉄の匂いを孕んでいた。鼻腔を灼くようなその匂いが、憎悪で熱くなった胸の奥まで染みていく。
 廊下は長かった。けれど、風圧を制御し身体を矢のように走らせれば、一息で屋敷の奥まで駆け抜けられる。床も壁も、私の存在を受け止めきれずに軋み、鳴き、割れた。

 ──見つけた。
 父を殺した、あの顔。驚愕と恐怖とを張り付けたまま振り返るその瞳。
 呼吸もなく、言葉もなく、ただ光が奔る。圧縮した空気が悲鳴を上げるような轟音となり、世界を裂いた。

 終わってみれば、静寂だけが残った。
 破壊の余韻だけがまだ指先にまとわりついているのに、胸の奥は空洞で、ただ一つの現実──父がもう戻らないということだけが、あまりにも重く、どうしようもなくそこにあった。

 ──けれど幸い──そう言うべきなのか、それとも更なる不幸と呼ぶべきなのか。
 私は裁かれなかった。正規の手続きも、帝国の法廷も、そこにはなかった。
 父の仇。その親玉が事件を闇に葬ったからだ。自分の立場を守るためか、それとも自らの手を血で汚すのを嫌ったのか。おそらく両方だろう。

 結果として、私は奴隷という名の檻に閉じ込められただけで済んだ。
 処刑台も牢獄もなく、ただ足首に金属の輪を嵌められ、名前も未来も値札に変わった。鉄の足輪は冷たく、時折わずかにきしんで皮膚を抉る。外そうとしたこともあるが、それはまるで生まれつきそこにあった器官を剥がそうとするような、痛みにも似た恐怖を伴った。

 それが情けか、嘲りか、いまでも答えは出ない。
 もし情けだというのなら、それは残酷な種類のものだった。なぜなら、ここから先の私は、神聖力を奪われ、シフタも神術も使えず、父の仇を前にしてももう二度とあの日のように刃を振るうこともできない。
 もし嘲りだというのなら、それもまた的を射ている。──父の娘としての私を完全に奪い去り、“道具”としての生だけを残したのだから。

 ただひとつ言えるのは──その瞬間、私の中で何かが決定的に壊れたということだ。
 怒りはまだそこにあるのに、燃やすための薪も、燃やす手段もない。
 感情は灰になって沈殿し、沈殿したまま腐り始めていく。
 あの日からの私は、誰かの娘でもなく、誰かの仇でもなく、ただ空洞を抱えた“奴隷”でしかなかった。

 ──とはいえ八歳の私には、なんで自分が足輪をつけられ、ボロを着させられて、暖房もない吹きさらしの場所で売り物にされているのかわからなかった。
 鉄の足輪は冷たく、じんじんと足首の皮膚を焼き付けるように食い込み、少しでも動けばかすかな擦過音を立てて存在を主張する。木枠に縛られた他の子どもたちの泣き声が風に溶け、藁と泥と人の汗の混じった匂いが鼻を刺した。冬でも夏でもない曖昧な季節、吹き込む風が骨の奥まで冷たく、薄い布切れの服は意味をなしていなかった。
 人買いの男たちは、私を見ても表情を変えない。値札を貼られた品物の一つに過ぎないという目だった。

 その一年半前にお母さんが二十五歳で死んだときには、お父さんは「キワナグランの定めだから仕方がない」と言って抱き締めてくれた。あのとき、父の手は大きくて、泣き疲れた私を簡単に包み込んでくれた。
 じゃあお父さんはなんで死んだの? 殺されなくちゃならなかったの?
 あの夜、父の部屋から聞こえた怒鳴り声や悲鳴、廊下にまで漂ってきた鉄の匂い──それが血の匂いだと気づくには幼すぎたけれど、何かが壊れたことだけはわかった。

 どうして私は一人になったの──?
 キワナグランだから──?
 その名が背負わされる意味を、八歳の私には理解できなかった。けれど、納得できない現実だけは理解していた。
 お母さんは定めで死に、お父さんは誰かの手で殺されて、私は檻に入れられた。
 理由もなく、説明もなく、ただそういうものとして。

 そんなとき、一人の老人が現れた。
 年老いた農夫の手はひび割れていて、厚い泥が爪にこびりついていた。彼は長く私を見つめたあと、人買いの男とひそひそ声で言葉を交わし、銀貨を数枚取り出した。それがいくらだったのかも、何を意味するのかもわからなかった。ただ、男たちの顔が納得したようにほころんだのを覚えている。

 「この子は……」

 老人は小さな声で、まるで私にではなく、自分自身に言い聞かせるように言った。

 「神の前に返すべきだ」

 わけもわからぬまま連れ出され、粗末な荷車の上で街道を揺られた。
 その老人の名も、どこから来たのかも知らない。
 けれど、彼が荷車を操る背中からは、人買いにはなかった温度が伝わってきた。

 着いた先は、帝都の端にある小さな村──ハンサ。
 そこで私は、教会へと連れていかれた。

 「神の御前にお返しします」

 老人はそう言って、私を修道女たちに託した。

 白い修道服の人々が足輪に触れ、私の名を尋ねた。けれど私は答えられなかった。名前を呼ばれることも、語ることも、もう意味がないと思っていた。
 そのとき初めて、自分が「物」ではなく、誰かの目に「人」として映っていることを知った。

 ──でも、心の奥底で思っていた。
 これは救いか? それとも別の檻に移っただけなのか?

 ──そのあと、奴隷としてハンサ村の教会に引き渡されてすぐ、この経緯を知らなかったシスターに言われた。
 両肩を掴まれて、強く、強く。
 指は節ばって硬く、皮膚の下には鍛えられた筋肉の線が潜んでいるのがわかる。女でありながら女であることを忘れたような、鋼のような体温。肩に食い込む力は、慰めではなく命令だった。

 「いいですか。私はあなたを奴隷としては扱いません」

 言葉は鋭く、それでいて揺るぎのない重みがあった。

 「そしてあなたはキワナグランとしても、その足輪をつけられた者としても、自分の身を守る術を身に付けなければなりません。シフタや神術が使えなくても、自分の身を守ることくらいはできます。訓練さえすればね」

 その声音は、かつて軍で命令を下した者だけが持つ抑揚だった。背筋を矯正するような響きに、私は思わず姿勢を正す。

 「その技術は私が教えます。あなたは、その技術で自尊心を取り戻しなさい。私はあなたを敗者のままではいさせませんよ」

 八歳の私には、その言葉の半分も意味がわからなかった。
 “自尊心”。その抽象的な響きは、まだ語彙にないものだった。ただ、肩にかかった手の硬さと、軍靴のように重い彼女の視線だけはわかった。
 だから私は頷いた。意味もわからないまま。

 いま思えば、八歳の子どもに自尊心がどうとか、わかるわけがないだろう、と言いたくなる。
 けれど、その瞬間──初めて誰かが「生きる術」を私に叩き込もうとしてくれている、と感じたのかもしれない。

 ──シスターのおかげで、私は教会の孤児院にいた孤児たちから一目置かれるほどの格闘術を身につけた。キワナグランで、奴隷なのに。
 日課の祈りよりも先に、裏庭の土を踏みしめる音を覚えた。夜明け前、霜を割る靴音が響き、シスターの号令で私の体は何度も地面に叩きつけられた。腕を守るよりも敵の喉を狙え──彼女が教えたのは、敗者が生き残るための現実だった。

 しかも、シスターは元軍の指導教官だった。鍛え上げられた肩と背中から、訓練場の冷えた空気の匂いがした。彼女の指導は苛烈で、体が悲鳴を上げても容赦はなかったが、その苛烈さが唯一、私に「まだ私は生きている」と教えてくれた。与えられたのは孤児用の遊びではなく、戦場で使える軍の近接格闘術──腕ひとつ、足ひとつで命を奪うことができる技。

 これがなかったら、私は自分が奴隷となったことを「仇を討った結果なのだ」と受け入れることはできなかったかもしれない。仇を討つという名目が、足輪の重みをわずかに軽くした。訓練の痛みが、過去の血の匂いを押し流してくれた。
 ──まぁ、仇の親玉は討てなかったけれど。
 その現実だけは、いまでも胸の奥で鈍い棘のように疼き続けている。

 だが、性愛神ユルムに祝福されたキワナグランの肉体は、祝福とも呪いともなる極端な美貌を宿していた。その加護は柔らかな曲線と透き通るような肌を与えたが、代わりに成長期を迎えても軍人のような筋肉がつくことは決してなかった。

 だから、筋力がなくとも人間を制圧できる術を徹底的に身に付けた。
 体重移動ひとつで相手の重心を崩す投げ、骨や神経を狙う急所打ち、逃げ道を断つ拘束。
 華奢な手足でも殺傷力を持たせるために、シスターは執拗なまでに同じ動作を繰り返させた。
 「力は飾りだ。技術で勝て」と言いながら、彼女は軍で培った近接格闘の全てを、容赦なく子どもだった私に叩き込んだ。

 ──なぜいま、こんなことを思い出しているのだろう。
 これから、ソラを自分の身体に招き入れようというときに。
 記憶は唐突に呼び覚まされる。木剣の重み、血豆の潰れる感触、息が切れて肺が焼けるまで続けた打ち込み。あのシスターの声が、叱咤と共に背中を押してくる。
 ──自尊心。敗者のままではいない。
 言葉が遠い過去から再び形を持ち、いまの私を締め付ける。そうか、私は自分を鼓舞しているのだ。
 この行為が、敗北の延長ではなく、奪われたままの人生の上でただ従わされるのでもなく、自らの選択で掴むものだと信じるために。
 羞恥と恐怖と諦念、その奥底に残るわずかな誇りをかき集めるために。
 あのとき教えられた“立ち向かえ”という言葉が、こんな場面で蘇るとは、思ってもみなかった。

 ──若いシスターに何枚かの書類を渡され、「こちらへどうぞ」と先導される。
 磨かれた白い回廊を進む足音が、やけに響く。シスターの無駄のない背中の動きが、こちらの躊躇を待つことなく一定の歩幅で前を行く。紙の束が手の中で重い。指先に伝わるのは羊皮紙特有のざらりとした感触と、印章の押された部分のわずかな凹凸。

 書類の中身を、一応、確認する。何が書いてあるかは事前に知っていた。それでも、自分がソラに“する”ことを求めるためのものだ。見ないわけにはいかなかった。活字が視界に刺さるたび、心臓が自分の意志とは無関係に早鐘を打つ。

 ──“卑俗ではあるものの皇族の一柱、キワナグラン家の血筋にあり”──。
 卑俗。卑俗ですか……。
 その二文字は冷たく、否応なく過去を引きずり出す。父を失った夜、あの屋敷の空気の重さ、奴隷市の檻の鉄臭い匂い。すべてが一つの言葉に収束するような感覚。呼吸が浅くなる。

 ──私がここで、こうして生きている理由が、この“卑俗”という烙印に収められているのだ。
 書面を見つめる視線は、自分の内奥を突きつけられているようで逃げ場がない。
 足輪の冷たさまでが、いま再び足首に蘇った。

 私の他には闇の人間二人しか知らないはずの秘密。あいつらはとっくに忘れているであろう私の秘密──親の仇と言えど、人を殺した事実。書面の活字がそれを見透かしているような気分になる。視線を逸らせば楽になるのに、それができない。紙面から漂う重さが、まるで血の匂いのように鼻腔を満たしていた。もちろん、そんなことはない。紙は紙だ。冷たい羊皮紙が私の罪を知っているはずがない。けれど、自分の奥底に沈殿しているあの夜の感触──空気を断ち割く光、悲鳴、崩れ落ちる肉体の温度──が再び蘇ってくる。

 私はこんな人間になってしまった。それはやはり、この血のせいなのだろうか。
 キワナグランの血。傲慢で、強欲で、四千年前から魔女と呼ばれた女たちの血。
 生まれながらにして宿命を背負い、誇りと蔑みの両方を刻みつけられた血脈。
 罪を犯し、転げ落ちた私をなおも縛りつける呪いのような血。
 赦されぬ存在でありながら、同時に特別であろうとすることを強いる矛盾を抱えた血。
 ──私の身体に流れる、それ。冷たくも熱くも感じるそれが、今日も鼓動のたびに私を縫いとめている。

 ──忘れもしない、初潮が来たとき。
 それは、ただ生理が始まったという一言では片づけられない出来事だった。
 まるで私の身体は、これまでの延長線上ではなく、別の生き物へと作り変えられたかのようだった。
 皮膚の下で脈打つ血が自分のものではないようで、骨の内側がじわじわと変形していくかのような感覚。内臓の奥深くが熱を帯び、知らなかった場所が疼き、息をするたびに新しい身体が形を主張してくる。

 普通の女の子でさえ、初潮の時期の身体の変化には戸惑い、ついていくのがやっとだというのに──。
 私のそれは、さらに余計な機能を開花させた。
 鏡の中の自分が知らない女の顔をしている。まつ毛は長く、唇は紅を差したように艶やかで、肌は発光するみたいに白い。髪は光を溶かすような赤黒で、目は深淵の色を湛えた。
 それはキワナグランの血がもたらす、祝福とも呪いとも呼ばれるもの。
 美貌。周囲を惑わし、支配し、時に崇められ、時に疎まれ、時に愛玩の対象となる、恐怖と欲望の両方を呼び寄せる性質。

 その正体を、私はシスターに教わった。あのときも肩を掴まれた。

 「あなたは、キワナグランよ。これがあなたの血の力。強さであり、同時にあなたを檻に閉じ込める鎖」

 低く強い声が耳の奥に焼きつく。
 それは、私にキワナグランとしての自覚を促すための宣告だった。
 ──あの瞬間から私は、自分の存在がただの私ではなくなったことを理解した。

 ──「エル。あなたにはまだ自覚がないかもしれないけれど、あなたはもう美人です。私から見ても、それは並外れたものです」

 シスターの声は低く、硬い。慰めでも称賛でもない、ただ事実を突きつけるような声音だった。

 「でも、ただ美しいだけではありません。あなたは“そこに在る”だけで、あらゆる男性を惑わせてしまう。他の美人とは違うの。これは血がそうさせているの」

 彼女は少し間を置き、私の肩を強く握り直す。

 「初潮が来たということは、もう出ているかもしれないわね。あなたの身体から。──慕香。そう呼ばれる特別な香りが。あなたの並外れた美しさと、この香りの二つは、性愛神ユルムから授けられたキワナグランの祝福よ。けれど、祝福であると同時に呪いでもある。とても扱いの難しい、危険なものなの」

 「香りはね、見えないのに世界を変えるの」

 シスターは視線を遠くにやり、淡々と続けた。

 「たとえば、炎に油を注いだらどうなるか想像できるでしょう? ほんの一滴でも、炎は一気に燃え広がる。慕香はそれと同じ。人の内側にある衝動を燃やし、理性を吹き飛ばす。狼に肉を投げる例えでは足りないかもしれない。もっと深い。もっと抗えないもの。あなたの存在が、彼らの世界そのものを狂わせる火種になるの」

 彼女は苦く笑って首を振った。

 「怖がらせるような例えしか出てこないのは、私の落ち度かもしれない。でもね、これが一番いい説明なの。あなたが自分の身体のことを知って、備えるには。──女の子は多かれ少なかれみんなそういう存在だけれど、あなたはその極端なのよ」

 その言葉が胸に突き刺さった。まるで私は、美しいというだけで火薬庫に放り込まれた火種なのだ、と言われたようで。
 祝福であるはずのものが、どうしてこんなにも冷たく響くのだろう。

 ──「とはいえ、あなたの慕香がもたらす危険は、キワナグラン以外の女性の比ではありません」

 シスターの声は低く、教会の石壁に吸い込まれるように響いた。

 「キワナグランが近くにいるとき、男性は理性を保つために尋常でない精神力を必要とすると言われています。──これがどういう意味か、もうわかりますね?」

 彼女は私の視線を逃さず、言葉を続ける。

 「あなたの背がまだ伸びていくのと同じように、美しさも慕香も、これからどんどん強まっていきます。だから、これからは男性に注意しなさい。寄ってくる男性はみんな、あなたの身体が目当てだと思っておきなさい。そうすれば、身体だけじゃなく、あなたの心も守られるから」

 その言葉の重みは、十歳の私には途方もなく遠い世界の話のように思えた。でも、シスターの目の奥にあった光は、ただの脅しではないことを告げていた。

 「もし、男性が理性を失っていると感じたら──容赦なく格闘術を使いなさい。いまのあなたでは、大の男を相手にするのはぎりぎりだから、全力でね」

 彼女はまるで、これが祈りにも等しい戒めであるかのように言った。

 「男性には申し訳ないけれど……あなたが自分を守るには、それしかありません」

 ──そのとき初めて、シスターが戦場の匂いを纏っていることを知った。
 彼女の逞しい指先が私の肩に残した圧力は、ただの修道女のそれではなかった。命を奪い、守り、背負ってきた者だけが持つ重さだった。

 ──「念のため、あなたにはこれから銃の扱い方も教えます」

 シスターの口調は、もはや諭すというよりも命令に近かった。軍靴の記憶が消えていない声。

 「素手での格闘だけじゃ足りません。あなたは自分の命を守るためなら、ためらわずに引き金を引けるようにならなきゃいけない」

 彼女は少し息を置き、視線を私の左肩──修道服の奥に隠された黒い文様に落とす。

 「それと……慕香のことだけど」

 声の調子が僅かに柔らぐ。「意図して使うのは、好きな男の子ができたとき。誘惑するときくらいにしておきなさい。決して邪な目的のためには使ってはいけません」

 言葉は優しさを装いながらも、その奥底で鋼のように硬かった。

 「あなたの左半身に刻まれているユルムの烙印──あれは飾りじゃありません。四千年前にこの祝福を授かった最初のキワナグラン、つまりあなたの先祖が、道を外れ、祝福を濫用した罰として受けたものです。そしてその罰は血脈を伝い、あなたにまで及んでいるのです」

 その瞬間、私は自分がただの少女ではなく、歴史と罰の延長線上にある存在だと思い知らされた。シスターの声が遠くで鐘のように響き、身体の奥深くに、冷たい釘を打ち込まれたような感覚が残った。

 ──キワナグラン。そう題された厚みのある絵本をシスターから渡されたとき、私はもう、覚悟していた。ずっと知りたかった答えを知るときが来たのだと、胸の奥で悟った。表紙を開けば、私はキワナグランになる──いや、もうとっくになっているその事実に、文字を通して向き合うのだと。

 ページを繰る指が震えた。紙のざらつきが皮膚に擦れ、古いインクの匂いが鼻をくすぐる。重々しい文と、どこか艶めいた絵が交互に並んでいる。そこには、キワナグランが帝国の汚名とされる理由が描かれていた。なぜ私が人々から冷ややかな視線を受けるのか。けれど虐げられるわけでもなく、むしろどこか特別扱いされることさえあるのか。傲慢で、強欲で、時に魔女とさえ呼ばれる理由。

 それまではずっとわからなかった。あの孤児院で、子どもたちが笑いながら私を魔女と呼ぶとき、私は何も言い返せなかった。左半身に黒々と刻まれたユルムの烙印──その幾何学模様が、私自身にそれが事実であると告げていたから。反論の言葉は喉で干上がり、代わりに涙が溢れた。

 泣く私を、シスターはいつだって抱き締めてくれた。元軍人の逞しい腕。少し汗と革の匂いが混じる、暖かい匂い。格闘術だけでは立ち直れなかったとき、必ずそこにシスターがいた。背中を叩き、髪を撫で、私の小さな世界を何度でも支え直してくれた。

 「そのうちわかる日が来る」──そう言い続けられてきた。けれどその言葉は、私が魔女であることを否定してはくれなかった。だから怖かった。知るということは、認めるということになる。ページをめくるたび、冷たい鎖が足首を締めつけるような感覚が増していく。

 ──この本を読み終えたら、私はもう戻れない。
 そのことだけが、何よりもはっきりとわかっていた。

 けれど、知ってしまえば話は単純だった。
 恋をして、慕香を授かって、その力で時の皇帝さえも籠絡しようとした──私たちのご先祖サマ。
 ……少しばかり端折りすぎかもしれない。でも、絵本の要旨はそんなものだった。彩られた挿絵には、妖艶な女が帝の耳元で囁く姿が描かれていた。香炉の煙のように艶めく線で表現されたその姿は、美しいというより、むしろ不気味だった。

 ──その不徳の果てに、神罰が下りましたとさ。末代まで、赦されざる咎人として。

 わかりやすい寓話。けれど笑えない現実。
 おかげで私の左半身には「黒いの」が這い、ユルムの烙印が皮膚を刻みつけている。
 まるで誰かの手で押し込まれた呪印のように。
 おかげで私の命は、二十五歳までしか続かない。

 ──それがキワナグランの末裔としての宿命。祝福と呪いを一緒くたにされた血脈。
 そういうわけで、私の身体はこんな風にでき上がっているのだ。

 でも、美人すぎるなんていう曖昧な褒め言葉では済まされない。
 立っているだけで、笑わなくても、声を出さなくても──男たちの目を熱くさせ、彼らの内側にある理性を少しずつ削り落としてしまう匂いが、私の身体から否応なく滲み出す。性愛神ユルムの「祝福」と呼ばれるそれ。けれど、そんなもの望んだ覚えはない。

 誰彼構わず発情させる香りを持つというのは、ただひとつの武器ではなく、呪いだ。
 どこにいても視線を感じる。
 会話の端々に潜む下心、黙っていても漂う敵意。だから常に周囲を警戒していなくてはいけない。
 男たちは私を警戒する。
 獣が牙を恐れるように、女たちは私を妬む。近づきもしないのに、近寄られたような顔をして忌避する。
 ──キワナグランだから。理由はそれで済む。

 もういい。長く生きたいとは思わない。
 どうせ二十五で終わる命だし、何よりずっと一人ぼっちだった。
 慕香を使えばいくらでも男は寄ってくる──そんな話も耳にした。
 でも、それで埋まる心の隙間じゃないと、私はとっくに理解していた。
 この香りは、私を孤独から救うどころか、ますます深い孤独へと沈めていくものなのだから。

 シスターは優しかった。誰よりも強く、誰よりも逞しいのに、その腕は驚くほど温かく、私を包み込んだ。けれどその温もりが、私自身に向けられたものなのか、それとも「かわいそうな子」だから注がれる哀れみなのか──わからなかった。そう思ってしまう自分が嫌だった。それでも、胸の奥で「きっとそうだ」と囁く声を否定できなかった。

 「愛」という言葉を覚えたときから、世界の輪郭が変わった。あの孤児院の喧騒の中で、私は急に自分が取り残されていることを知った。愛されているのか、そうでないのか──その境界線を探すほど、余計に孤独になった。

 そういえば、ソラにも魔女と呼ばれたことがあった。私の血を、烙印を、匂いを──みんながそう呼ぶ理由で彼もそう言ったのだろう。それなのに、いま彼は私と結婚したいと言う。あと九年で死ぬ女に。慕香のせいにするには、その態度はあまりに穏やかで、紳士的だった。迷いも邪心も見せず、私をひとりの人間として扱おうとしていた。
 ──その理由がわからないからこそ、私はますます混乱するのだ。

 ──でも、今日はわからない。いままで、私の身体を「好きにしていい」なんて、誰にも言ったことがなかった。そんな言葉を口にするどころか、想像すらしてこなかった。けれど、いま──私はこれから、その最初の一人としてソラを招き入れる。慕香の効果が、もっともあらわになる状況へ。私という存在が、キワナグランとしてもっとも強く「女」として顕現する場所へ。どうなるのかなんて、わからない。ソラがどうなるのか、私がどうなるのか。怖くて、でも同時に奇妙な安堵があった。どこにも行き場のない私の生が、ようやく誰かと交わって、ほんの少しでも意味を得られるかもしれない──そんな錯覚が、心の底でひっそりと芽吹いていた。

 一度だけ、慕香の効果を試してみたことがある。村に一番近い町、アルベルクでのことだった。シスターの買い物に連れて行ってもらい、荷運びの合間に暇を持て余していたとき。石畳の通りを行き交う商人や巡礼者の喧噪の中で、私はそれを見た。黒塗りの四頭立て馬車──磨き抜かれた真鍮の装飾が鈍い光を放つタウンコーチ。その馬留めに、薄汚れた三人の子どもが歩み寄っていく。物乞いだった。伸ばされた小さな手に、馬車の中の紳士は一瞥すらくれず、代わりにフットマンが無言で鞭を軽く振り払う仕草で追い払った。子どもたちの影は通りの雑踏に紛れ、すぐに見えなくなる。

 その光景を見たとき、胸の奥で何かがざわついた。悲しみでも怒りでもなく、もっと別の感情──好奇心だった。もし私が同じことをしたらどうなるだろう? あの子たちのように、鞭で追い払われるのか。それとも──。私は一歩、馬車の方へ足を進めた。深呼吸をし、ほんの少し意識的に、自分の内に眠る慕香を開く感覚を試みる。唇が乾いているのがわかる。通りを渡るとき、靴音が石畳に小さく響いた。馬車の前に立つフットマンの目が、私を認めた瞬間にわずかに揺れる。視線が私の顔に吸い寄せられたのがはっきりわかる。

 修道服を着ているから肌の大部分は隠れている。ユルムの烙印は見えない。つまり、私がキワナグランだという警戒心を持たれずに、純粋に慕香の力が発揮される──そして、容姿の力も。心臓がうるさいほどに鼓動を打つ。好奇心がそれをかき消した。私は石畳の通りを渡り、黒塗りの四頭立て馬車の横まで歩み寄る。馬車は磨かれた真鍮の装飾を鈍く光らせ、馬の吐息と革の匂いが鼻を刺す。窓を軽くノックした。金属を叩く音が小さく響き、中の気配がこちらに向いたのを感じる。あれは、たぶん貴族だったのだろう。奴隷の証に足輪を見せるついでに、右の脚をわずかに晒した。女が男に何かねだるときは、少しでも身体を見せれば効果的──孤児院で耳にした誰かの言葉を思い出して。「主人が食べ物をあまりくれなくて、お腹が空いているんです。助けていただけませんか」……そう言ったはずだ。何を言ったのか、よく覚えていない。

 フットマンが目を見開き、何も言わず立ち尽くす。代わりに、馬車の窓が音もなく静かに開いた。中から、年配の紳士が私を見た。あの物乞いの子どもたちに向けられたものとはまるで違う、熱と興味の入り混じった眼差し。視線が皮膚を貫き、まるでこの場で手を伸ばせば抱き寄せられるのではないかと思うほどの吸引力があった。私は立ち尽くしたまま、その重さを受け止める。そのとき、初めて自分の持つ「力」を実感した。恐怖と、得体の知れない優越感が背骨を這い上がってくる。そして悟った──これが、キワナグランの慕香なのだ、と。

 ドアが開いて、革の匂いと共に紙幣と名刺が差し出された。白手袋をはめた紳士の手だった。「それで足りなくなったら名刺の住所を頼ってきなさい」──低く響く声が、奇妙に優しげで、けれど突き放すようでもあった。背後から戻ってきた女が紳士の腕を取ると、馬車は砂利を蹴って動き出し、たちまち人の波に溶け込んだ。

 手の中の紙幣は、見慣れない図柄の厚手のもので、指先で押すとわずかに軋む。あまりに簡単に渡されたことにまず驚き、次に、その額面を見てさらに驚いた。お金を手にするのは初めてだったのに、直感でわかる──これは子ども三人が一ヶ月は食べられる額だ。一度の物乞いで渡される金額としては、あまりにも異常に高額だということも。

 その重みは紙幣のせいではなかった。私の中で何かがざわつく。あの視線と、この紙切れはきっと繋がっている。慕香。容姿。私が好奇心で使ってしまったキワナグランの「力」。──これは施しじゃない、もっと別の何かだ。そう思った瞬間、背筋が冷えていくのを感じた。

 これは、明らかに慕香の力が働いていた。容姿の良し悪しではない。あの紳士の目に宿った熱は、私という存在そのものではなく、ユルムから授かった力が引き出したものだ。──そう理解した瞬間、胸の奥が冷たく締めつけられた。

 「決して邪な目的のために使ってはいけません」「傲慢で強欲」「魔女」「神罰」──シスターの言葉と、絵本で読んだご先祖サマの逸話が、重苦しい鎖のように意識を締めつける。まるでユルム様が雲の向こうから私を覗き込み、すべてを見透かしているような感覚。視線を感じた。神に。

 恐ろしくなった。手の中の紙幣はただの金額ではない。持ってはいけないもの。私が触れてはいけないもの。背筋を走るその感覚に耐えられず、すぐに近くでこの一部始終を見ていた三人の子どもたちに紙幣を押し付けるようにして渡した。彼らの驚いた顔も見ず、私はただ逃げるようにシスターの元へ戻った。走りながら、心臓が脈打つたび、ユルムの烙印が灼けるように疼いていた。

 このことで、私は自分が魔女と呼ばれる理由を、本当の意味で理解した。慕香は単なる誘惑の香りではない。男の視線を奪い、意識を侵し、理性という最後の砦を静かに崩していく。美貌と合わさったそれは、時に言葉すら必要とせず、望むままに人を従わせる。──そりゃあ、やろうと思えば国を転覆させることだってできるだろう。皇帝にさえ、自分の希望を聞かせられればいいのだから。あの絵本で描かれたご先祖サマが、なぜ帝国の中枢をも手玉に取ろうとしたのか。いまなら少しわかる気がする。誘惑ではなく、もっと根深い衝動。力を持ってしまったがゆえの孤独と、何かで埋めたくなる渇き。ほんの少しだけ、あの不徳の女に同情した。

 慕香にあてられた男は、たいてい身体をどうにかしようとしてくる。視線がまず変わる。濁った熱の膜がその目を覆い、呼吸は乱れ、近づく足音に理性の残滓が感じられなくなる。けれど、すぐに気づいた。私が「やめて」と言えば、彼らはまるで糸が切れた操り人形のように、手を引っ込める。慕香をまとった私の言葉には、強い強制力があった。自覚もないまま、拒絶のひと言が命令のように彼らの意識を支配していたのだ。だから、シスターが心配したほどには、私の身は危険に晒されているわけではなかった。もっとも、中には酔った獣のようにしつこいのもいる。そういうときは、シスターに教えられたとおり、身体に覚え込ませた技術で叩き伏せる。頸動脈を締めるのも、膝を逆に折るのも、恐怖を刻み込むための言葉を囁くのも、一瞬のことだった。だが不思議なことに、そういうときでも反撃や抵抗はなかった。慕香の力に絡め取られた彼らは、私の小さな手一つで容易に崩れる。──だから捻じ伏せるのは簡単だった。その容易さが、かえって自分がどれほど人間離れした存在になっているのかを、嫌でも突きつけてきた。

 ただ、ソラは違った。慕香にあてられた男たちと同じ範疇にいるはずなのに、彼はその枠組みを外れていた。そもそもソラには“あっち”の意味合いで身体を触られたことは一度もない。距離の取り方が、他の誰とも違っていた。昔は他のみんなと同じように、魔女、魔女、と面白がるように言ってきていたけれど、それもいつの間にかなくなった。そしていつからか、私を遠巻きに見るようになった。何を考えているのかわからない、その曖昧な距離感に戸惑っているうちに、彼は士官学校に入学した。軍服がまだ身体に馴染んでいない、少し背伸びした少年のままの顔で、いきなり結婚してほしいと言ったのだ。唐突だった。結婚するにしては君はまだ若いんじゃないの、と思って、とりあえず口から出たのは「また今度」という、あまりにも間の抜けた応えだった。──今度って。今度、私はどうするのだろう。その曖昧な返事が自分でも怖かった。そう思っていたら──いや、そう思っていたのは数時間だけだったけれど、案の定、ソラは帰省してくる度に結婚してほしいと言うようになった。まるで儀式のように、何度も。慕香にあてられたからでも、憐れみでもなく、ただそこに意思があって。だからこそ、私はいまでもその言葉をどう受け止めていいのかわからないままでいる。

 慕香の影響にしては変だった。もっと強く、もっとわかりやすく作用するはずなのに、ソラにはそれがなかった。彼はいつも、私を見ても一歩引いているようだった。なのに目を逸らさない。まるで、触れれば壊れてしまうものを見るように。けれどそれが特に害をもたらすわけでもなかったから、私も毎回「また今度」と答えるのが習慣になっていた。ただいつだったか、シスターに継子の話と共連れの話を聞かされてから、ソラが適任なのではないかと思うようになった。シスターはあの逞しい声で、「あなたには自分で選ぶ権利があるのよ」と言ったけれど、実際には選べる相手なんていなかった。なのにソラだけは違った。ソラは他の男と違って、かわいい。慕香の影響の仕方が違うから、警戒する必要もなくて、近くにいても鬱陶しくない。話しかけるとしどろもどろになってしまうけれど、その不器用さが却って安心感をくれた。シスターを除けば、私が落ち着いて話せる唯一の相手だった。ソラが帰ってきているとき、私は少なくとも寂しくはなかった。孤独に沈み込む夜が、少しだけ和らぐ。ほんの少しでも、人とつながっていると思える時間があった。その事実だけで、私は嬉しかった。

 結婚してほしいと告げられてから、ソラがいるときはほとんどいつも一緒にいるようになった。自分でも不思議なくらい自然なこととして受け入れていた。ソラは安全だし、ソラのそばにいれば私も安全だった。まるで彼が結界のように働いているかのように、周囲の男が寄ってこない。慕香の力をまとった私の存在が、常に男を惹きつけてしまうとわかっているからこそ、その異様な静けさは際立っていた。ソラが私を差別しないのも、結局は慕香の影響なのだろうか──そう考えると胸の奥が少しだけ複雑に軋んだ。でも、それを否定したところで何になる。男に近づかれることは恐怖で、女に嫌われるのもまた慕香のせい。ならば、この奇妙な平穏は、むしろ喜ぶべきものだと思うことにした。ソラの隣にいるときだけ、私は自分の影を少し忘れられた。

 私がどうしても子どもを産まなければならないのだとしても、その相手がソラならば、文句はない。そう考えるまでに、どれだけの夜を孤独と共にやり過ごしてきただろう。ソラと“する”ことは、恐怖ではなく、想像できることとして頭の中で形を持っていた。淡い光の下、手を重ねる場面、互いの呼吸が触れ合う距離で交わす言葉──そんなイメージすら受け入れられるほどには。子どもも産めると思った。それは義務としての妊娠ではなく、かすかに未来へと伸びる線の一端として。長い時間をかけて出した結論だ。諦めや開き直りではなく、選び取るための時間が必要だったのだ。ソラが私と結婚したいと言ってくれていてよかった。その言葉が慕香の影響なのか、それともソラ自身の意志なのかはわからない。けれど、私が初恋の相手を探すにはもう時間がなかった。二十五歳という期限が、私の世界をあまりにも狭くした。見つけさえすれば、慕香で一気に攻め落とせるのに──。それが本来、この香りの意味であり、役割のはずだったのに。私は、その力をようやく使うべき相手に向けようとしている。

 子どもと一緒にいてあげられるのは、長くても八歳までか。私が母と別れたのも、そのくらいの年齢だった。あのときの、突然すぎる空白の広がりを思い出す。シスターがいれば、そのあとの時間もきっと大丈夫だろう。私がいなくなっても、あの逞しい腕と鋭い眼差しが、子どもを守ってくれるはずだ。だからこそ、いまから考えなければならない。ソラがお父さんになれるかどうか──ただ種を与える存在ではなく、ちゃんと子どもを抱きしめられる人間かどうか。それはこれから私が見極めていくべきことだ。そんな決意の裏で、現実が唐突に迫ってくる。重い扉が軋んで開き、ダブルベッドの備えられた個室に通された。旅装のままの空気が、白いリネンの匂いと交じって妙に現実味を帯びる。清潔なはずの部屋なのに、これからここで起こることのすべてが、既に私の皮膚を通して伝わってきているようだった。


仰向けで待つエル。覆い被さり、深緑の瞳を見つめるソラ。
互いの胸の奥で渦巻くものは、言葉にできないほど複雑だった。
決意と恐れ、赦しと罰、そして名前のつかない想いが、薄暗い部屋の空気と混じり合っていた。
伸ばせば届く距離。けれど、その一歩が永遠に続くかのように重い。
彼らはただ、時間を止めたように見つめ合っていた──。

──ソラとエルの行方は、数年後の 『bitBuyerテリング』 にて明らかとなる。

このブログを購読(RSS)
1st Project Anniversary 🎉
Shōhei KIMURA|Facebook
Yōhaku KIMURA|𝕏
コーヒーブレイクを提供してくださいますか?

【開発に興味のある方】
bitBuyerコミュニティ規約
LINEオープンチャット
Dicordサポートラウンジ

bitBuyer Projectをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む