ウォール街ではなく台所を見る
市場を見ている、と言う人間は多い。S&P500を見ている者、NASDAQを見ている者、ドル円を見ている者、金価格を見ている者、原油先物を見ている者。いずれも立派である。いずれも経済の抽象を語るには向いている。だが、生活の現実を語るには、少しだけ遠い。
本当に遅れて、しかも逃げ道なく到着する市場は、最後には台所にある。為替が動く。原油が上がる。金が買われる。株価が下がる。先物が騒ぐ。ニュースはここで一度完結した気分になる。だが、生活者の世界では、それはまだ序章に過ぎない。数週間後、数ヶ月後、コーヒーの値札が変わる。ごま油の棚で手が止まる。黒胡椒の瓶を見て、昔の価格を思い出した者が、静かに敗北を認める。経済は、最後にいつもこういう顔でやって来る。
新聞の論説委員ならここで、こう言うだろう。市場を台所へ縮減するな、と。金融政策、地政学、供給網、国家予算、貿易収支、労働市場──これらの巨大な運動を、ごま油と胡椒に還元するのは乱暴だ、と。だが、こうである。還元されるのではない。到着するのだ。巨大な運動は、最後に生活の単位へ着地する。人はCPIの折れ線を食べない。人は夕食を食べる。市場の最終出力が台所である以上、台所を見る者はむしろ経済の終端を見ている。
だから、必要なのは一つの単純な哲学である。要る物を最安で買え。余裕が出るなら後で売れ。売れなくても困らない物だけ持て。この原理に従うと、視線は自然にウォール街から台所へ移る。人はここで初めて、指数ではなく文明を見る。
なぜS&PではなくS&Bなのか
S&Pはアメリカ企業の集合である。S&Bは日本のスパイス棚である。前者は未来の収益期待を割り引いて現在へ映す。後者は、今晩の炒飯に必要なものがいくらになったかを、何の遠慮もなく告げてくる。
この差は大きい。株式市場は、人類が発明した高度な抽象機械である。だが、人類は株式市場より前に、油と香辛料と穀物を巡って文明を作ってきた。塩が道を作り、胡椒が交易路を変え、油が生活の質を決めた。歴史とはかなり長い間、香辛料ETFの変形であったと言っても大きくは外れない。
論説委員ならここで、また咳払いをするだろう。文明史を持ち出してS&Bに権威を与えるのは詭弁ではないか、と。S&P500とS&B食品を並べるのは、言葉遊びの域を出ないのではないか、と。だが、こうである。言葉遊びが成立するのは、記号の背後に構造が似ているからだ。S&Pは「分散された企業価値の束」であり、S&B ETF(笑)は「分散された生活必需価値の束」である。前者は収益を基礎に価格が立ち、後者は必要を基礎に価格が立つ。違うのは抽象度であって、束ねて観測するという形式そのものは同型である。
ここで笑う者は多いだろう。しかし、IQ 164が本気で冗談を言うとき、冗談は大抵制度の形をしている。困るのはここだ。笑っていたはずなのに、途中から理屈が通り過ぎてしまう。
このETFの構成資産
このETFは、もちろん法的な意味でのETFではない。証券コードもない。指数算出会社もない。あるのは台所とAmazonのカートと、生活者としての異常に粘着質な観測だけである。だが、構成資産はある。しかも妙に完成度が高い。
主力資産の第一は、S&Bの黒胡椒である。商品名は伏せる。理由は一年後に現物で売る可能性があるからであり、私はその程度には現実主義者である。胡椒は軽い。腐りにくい。輸入コモディティである。しかも家庭認知度が高い。利幅そのものは大きくなくとも、セット全体の見た目を引き締め、日常性に信用を与える。ETFにおける大型安定株の役割を、胡椒が担う時代が来たのである。誰も望んではいなかったが、来た。
第二の主力は、九鬼のごま油である。これも商品名は伏せる。理由は同じだ。ごま油は一発逆転の裁定資産ではない。むしろ、じわじわと生活へ圧をかけるインフレヘッジ資産である。気付けば高くなっている。しかも使う。つまり、価格下落時の退出戦略が炒飯である。この一点において、かなり異常な強さを持つ。
第三の主力は、ウェスティンカフェのインスタントコーヒーである。これは価格歪みの観測対象として優秀だ。輸入依存が高い。保存性がある。生活必需品としての需要も読める。相場が上がれば売却余地が生まれ、売れなければ朝の一杯になる。暴落時の清算先がカフェインというのは、金融史上稀に見る穏やかな退出である。しかも、私は1日2L飲む。
第四の資産は、S&B系統のガーリック調味料である。これは指数の香味部門を構成する。なくても生きてはいける。だがあると、世界が少しだけ整う。市場はしばしば、この種の地味な重要性を見逃す。だからこそ指数に組み込む意味がある。
第五の資産は、S&Bの李錦記ブランドを冠する鶏がらスープ系資産である。これが入ると急に指数が食べられる気配を帯びる。胡椒と油だけでは、まだ思想である。出汁が入ると、そこに現実が宿る。私はこの段階で、かなり勝った気分になる。まだ何も勝っていないのに。
第六の資産は、ウーケのパックご飯である。ここへ来て主食が入る。これにより、このETFは単なる調味料指数ではなく、炒飯生産可能指数へ進化する。米は円安直撃ではない。だが、国内需給が崩れたときには別の角度から平然と高くなる。つまり、これは輸入コモディティとは別系統の防御資産である。株式で言えばディフェンシブ。炒飯で言えば主権国家。
第七の資産は、宇部フィルムの保存・処理用ポリ袋である。ここで指数はついに生産と消費と廃棄を一体化する。普通のETFは生産側だけを切り出す。だが人間の生活はそこまで単純ではない。料理し、食べ、片付ける。経済とは、この面倒臭さごと引き受けた総体である。従って、この袋は地味だが必要だ。しかも異常に必要だ。
論説委員ならここで、腕を組んでこう言うだろう。構成銘柄が雑多過ぎる、と。胡椒とごま油とコーヒーと出汁と米とポリ袋を一つの指数に入れるのは、分類学への反逆ではないか、と。だが、こうである。雑多なのではない。人間の生活が最初からそうなのだ。整然とした指数に慣れた目には乱雑に見えるだけで、実際には「一皿へ収束する資産群」という一点で極めて整っている。むしろ株価指数の方が、生活から見ればよほど雑多である。
論説委員はここで眉をひそめる。だが、こうである
論説委員は、ここで恐らく三つの懸念を口にする。
第一に、それは投資ではなく節約ではないか。
第二に、それは市場分析ではなく買い溜めの正当化ではないか。
第三に、そんなものを指数と呼ぶのは言葉の過剰使用ではないか。
だが、こうである。
第一に、節約と投資は本来そこまで遠くない。安く買い、高く売る。あるいは、高くなる前に確保する。その利益が現金化されるか、生活費の削減として実現するかの違いしかない。株式市場では「キャピタルゲイン」と呼ぶものを、台所では「去年より安く食えている」と呼ぶだけの話である。
第二に、買い溜めは目的ではない。時間差の観測が目的である。金融市場が先に動き、企業コストが次に動き、消費者価格が最後に動く。このラグを見て、保存可能な必需品を前もって押さえる。これはただの恐怖買いではない。タイムラグを利用した生活コモディティの備蓄戦略である。大袈裟に言えば、家庭内先物。控えめに言っても、かなりまともな遅延観測だ。
第三に、指数と呼ぶのは過剰か。確かに過剰である。だが、過剰であることと、間違っていることは別だ。複数の資産を束ね、その変動を観測し、ひとまとまりの概念として扱う。これが指数の最低条件なら、この台所ポートフォリオは充分にその条件を満たしている。金融が神聖で、炒飯が俗であるという前提の方が、むしろ古びた偏見である。
言い換えるなら、これは投資を家庭へ持ち込んだのではない。市場の原型が、そもそも家庭の中にあったことを再発見しているだけだ。この意味でこれは退化ではなく、妙に賢い原始化である。
金融庁はここでツッコむだろう。だが、こうなのだ
金融庁はここで、冷静にこう言うだろう。「それ、ETFではありませんね」。──その通りである。法的な意味ではETFではない。受益証券もない。上場もしていない。投資信託約款もない。私はその点については、異常なほど素直である。
だが、ここで思考を止めるのは早い。金融庁はさらにこう言うだろう。「では、なぜETFという語を使うのですか」答えは単純である。概念を伝える最短距離だからだ。
複数の生活コモディティを束ね、必要に応じて一口単位に分け、将来価格を見ながら配分し、売るか食べるかを判断する。この構造を、何と呼べば最も早く伝わるか。私は考えた。その結果、最もふざけていて、しかも最も正確な言葉が残った。それがETFである。
金融庁はさらに眉を上げるだろう。「これは将来価格を示唆していますね」。──そうだ。だが、ここにも決定的な違いがある。私は利益を保証しない。元本保全を約束しない。配当も約束しない。むしろ、最終的に炒飯として清算される可能性を明記する。これほど正直な商品説明を、私は他に知らない。
金融庁ならここでツッコむだろう。「それは金融商品ではなく食品セットですね」──。だが、こうなのだ。食品セットであることと、価格観測の対象であることは両立する。むしろ、生活に直結するからこそ観測対象として意味がある。株は下がれば紙の上で痛い。胡椒は下がっても夕食で回収できる。この異様な非対称性は、金融商品にはない。だから笑いながらも、どこかで羨ましさが出る。私はこの感情を信じている。
bitBuyer.dev直伝・簡単炒飯手続
ここで私は、レシピとは言わない。手続と言う。なぜなら、bitBuyer.devの文脈では、料理もまたプロトコルであるからだ。人は笑ってよい。だが手順は守ってほしい。文明は大体手順を守れなかったときに崩れる。
●手続第一。米を用意する。冷たい米でも温かい米でもよい。粒が分離している方が望ましい。
●手続第二。卵を二つ取り出す。まだ割らなくてよい。
●手続第三。ごま油をフライパンに大さじ一杯程度、または二杯投入する。フライパンを充分に加熱する。
●手続第四。ごま油が充分に温まったら、フライパン全体に行き渡らせる。続いて塩胡椒を好きなだけ入れ、フライパンを前後左右に傾け、ごま油と塩胡椒を完全に混ぜる。──混ざる。
●手続第五。ここで重要な原理を説明する。塩が油と共にフライパンへ広がると、次に投入される米の表面に塩が付着する。塩が付着した米は、内部と外部の塩濃度の差によって水分が外へ移動する。この水分はフライパンの高温で蒸発する。この結果、米は自然に乾き、粒が分離した状態になる。
●手続第六。米をフライパンへ投入し、充分に炒める。前段階で塩胡椒が油に混ざっているため、ここで勝手に味付けが整う。
●手続第七。米が充分に温まったら、卵を割り入れ、米と混合して高温で処理する。
●手続第八。必要に応じてガーリック調味料で補正する。省いてよい。
●手続第九。必要に応じて鶏がらスープ系資産を投入し、旨味指数を調整する。省いてよい。
●手続第十。全体を均一化し、完成を承認する。
●手続第十一。保存・処理用ポリ袋は、その後の生活のために静かに待機する。
論説委員ならここで、さすがに笑うだろう。経済記事の途中で炒飯手続が出てくるのは何事か、と。だが、こうである。市場の最終到着点を論じているのだから、その到着点を記述しない方が不誠実だ。経済が最後に台所へ来ると言うなら、その台所で何が起こるかまで書いて初めて、論旨は閉じる。途中で炒飯が出てくるのではない。最初から炒飯へ向かっていたのである。
このETFの清算方法
普通のETFは換金される。このETFは、最終的に炒飯として清算される可能性がある。この一文だけで、ほとんど全てが説明できる。売れなければ、失敗ではない。使うだけである。使われれば、役割は完了する。価格で清算されるか、食事で清算されるかの違いしかない。しかも後者の方が、精神衛生においては明らかに優れている。
金融商品の一部は、画面の中で死ぬ。だが、コーヒーとごま油と胡椒と米と出汁とにんにくは、鍋の上で死なない。むしろそこで生きる。私はこの事実を、随分気に入っている。
金融庁ならここで、最後にもう一度言うだろう。「やはりそれはETFではなく、生活資材のセット商品ですね」──その通りである。しかし私はここで逆に問いたい。生活資材のセット商品であっては、なぜいけないのか。市場が生活へ降りてきたとき、それを最も正確に表現する形式が、たまたま炒飯可能指数であっただけではないか。制度はときどき、自らが想定しなかった形式に出会う。大抵は困る。だが、まれに笑う。そして、笑った後で少しだけ考える。今回の件は、その後者であってほしい。
結論──文明は最後に台所へ降りてくる
金が上がる。為替が動く。先物が騒ぐ。株価が落ちる。そういうニュースは大きい。だが、本当に生活を支配するのは、その数週間後、数ヶ月後に静かにやって来る値札の変更である。コーヒーが高い。ごま油が高い。胡椒が高い。米まで高い。ここで初めて、人は世界情勢を胃で理解する。
だから私は、S&PではなくS&Bを見る。私は企業の将来利益だけではなく、炒飯の現在原価を観測する。必要なら、それをセットにして販売する。売れなければ、自分で食べる。このとき私は損失を計上するのではない。晩ごはんを確定させる。
論説委員なら、最後にこうまとめるだろう。「結局これは、生活と市場の境界が曖昧になった時代の寓話である」と。私はそこに一語だけ付け加える。寓話ではない。かなり現実である。
金融庁なら、最後にこう言うだろう。「表現は挑発的だが、言っていることは妙に筋が通っている」と。私はそこにもう一語だけ付け加える。それで充分だ。
S&PじゃなくてS&B見てるよETF、誕生。──これは明らかに冗談だ。しかし、IQ 164が本気で冗談を言うとき、冗談は大抵、新聞の論説欄に載せても不思議ではない程度には制度化される。そして制度化された冗談は、ときどき本物の市場よりしぶとい。──笑。


